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「絵師100人展」感想。萌え絵というゼロ年代総括。

 近年、日本発の漫画やアニメ、ゲームなどの文化が世界から大きな注目を浴びています。日本での評価もまた見直されるようになり、海外ではこうした文化を通じて日本を知る若者も増えています。
中でも高い技術で秀麗なイラストを描く画家(イラストレーター)は、江戸時代の浮世絵師になぞらえ、「絵師」と呼ばれています。

(「絵師100人展」ポスター解説文より)
   絵師100人展

関連Link:アキバで「絵師100人展」開幕 人気イラストレーターが「日本」テーマに

 「絵師100人展」に行ってきました。思ったより面白かったので感想を書きます。
 面白いというのは作品ではなく、この展示会の企画自体が歪んでいて考えることが多いからです。萌え絵を江戸時代の浮世絵になぞらえてクールジャパンとして売り出そうとしていて、絵の題材も「日本」で統一されています。

 「独特の世界」「高い技術に裏づけられたクオリティとポテンシャル」と謳っていますけど、まあ嘘ですね。おおよそ2、3日で描いたと思われるいつも通りの商業イラストです。基本的にフォトショかペインターで描かれていて、フィルタが多用されている。背景もなしかコピペが多く、もちろん上手い方もいますが全体としての画力は決して高くない。
 「日本」というコンセプトも、予想どおり「巫女」「和服」「黒髪」とかポストモダンな「美しい日本」そのものです。浮世絵というか、浮世絵に影響されたモネとかのジャパネスクに近い感覚。ブシドー、ニンジャとかと大差ありません。このテーマは安直すぎて絵師さんも嫌だったかもしれませんが、でも萌え絵を浮世絵になぞらえて海外に紹介するとしたらこうするしかない気もする。

 ――と、さんざんdisっててアレですが、もちろん僕もオタクなので萌え絵は好きなわけです。そういった点を差し引いてもやっぱり萌え絵には力があるし、「世界」は郊外的で薄っぺらいけど、独特の美学はある。

 萌え絵のコンテクストというのはもちろん、「まんが・アニメ的リアリズム」ですよね。漫画、アニメの絵がベースになっていて、それが90年代にCGの普及でマッシュアップされる。その中で90年代末~2000年代前半に美少女ゲームマーケットが花開き、キャッチーな可愛さに特化したカラーイラストが大量に出回るようになる。これが「エロゲ絵=萌え絵」であり、それを描く「原画家=絵師」ですよね。
 個人的にも思春期の頃はたいそうエロゲ絵に魅かれていたんですが、それはやっぱりCGの特徴に魅かれていたところがあって、キラキラした光やペンタッチの出ない滑らかなグラデーションにある種のリアリティを感じていたんだと思います。それが漫画の絵と組み合わさってるのが新しかった。Keyのゲームの背景みたいなCGを自分でも描きたかったです(今でも)。
 伊藤剛さんがTwitterで「一般人は上手い、きれい、本物みたい」が評価軸だと言っていますが、萌え絵もロウアートなので大衆の欲望に忠実なわけです。なので、ハイアートのような評価軸がないし、高値で取引きされるマーケットもない。そもそもCGなのでいくらでも複製可能だし。そういう意味では浮世絵と似てるし、ハリウッド映画のVFXとかにも近いのかもしれない。
 …ただ決定的に違うところが1つあって、それがやたらに顔と目のデカい、「美少女」と呼ばれる奇形化したキャラクターなわけです。

 今回の参加者でもある大槍葦人さんのTwitterでの発言で、個人的にすごく印象に残っているものが2つあります。

今の日本のオタク文化って結構凄いかもしんないです。200年たったらすごく評価されると思う。

http://twitter.com/#!/oyari/status/26337601359

神聖さや、恋愛や、狂気については、理屈ではないからこそその存在意義があって、もし理屈で説明できるようならそれは偽物なのです。 RT @tosit_ane: @oyari じゃぁアヘ顔ダブルピースについて理屈っぽく語ってくださいよ!語ってくださいよ!

http://twitter.com/#!/oyari/status/39714588341702656

 1つ目の発言はたぶん「絵師100人展」の仕事を受けてのものだと思うんですが、これには僕もすごく同意したい。でもそうなると2つ目の発言がすごい気になってきて、なぜなら「歴史」っていうのはただのほほんとしていれば評価されるものじゃなくて、その作品の良さについてある程度論理的に歴史コンテクストの中で位置づけられて、はじめて評価を得るものだと思うんですよ。良い作品でも埋もれてるものなんて腐るほどあるわけで…。その意味で、批評を拒否しているような上の発言は僕は嫌悪感を持ちました。

 ただ、クリエイターって2タイプいるような気もしていて、大槍さんみたいに感覚とか身体性を重視する人(ドグマティズム)と、ロジカルに作る人と別れる気がするんだよなぁ。建築でいうとわかりやすくて前者がSANAA、後者が藤村龍至なんですが。
 大槍さんの作品は今回もすごく良かったし、自分の創作の論理としてドグマティズムが肌に合うというのはよく分かるんですが、「萌え絵」というコンテクストが歴史的に説明できなければロマン主義な西洋絵画の劣化コピーでしかないわけで…そこが苦しいと僕は思います。

 萌え絵のとりあえずの起源として、1つ「みつみ美里」というのが置けるかなぁと思っていて、彼女は2000年前後の同人誌即売会の女王で、かつ彼女の在籍していたエロゲメーカーのF&Cの絵柄が現在の萌え絵のベースになっているわけです。特に今回「絵師100人展」でキュレーションされた絵師の多くはそうした「エロゲ絵」で、2000年前後からエロゲやラノベの挿絵で活動し、アナログで線画を描いてスキャンしてPhotoShopで色を塗るというスタイルの作家が多かった。今回みつみさんは参加してなかったんですが、そういう意味でもこのメンバーならポスターの名簿の中心に配置されるのは、みつみ美里という秘匿された起源だったんじゃないかという気がした。
 そして萌え絵もpixiv世代になると道具の変化に合わせて若干変化してきていて、基本的にpixivの作家はペン入れの段階からデジタルの人が多いです。またフカヒレさんやKEIさんのように、Painterで油彩っぽく線画に頼らない描き方をする人も増えてきたし、あとぷちでびるさんとか、pixivのランカーはそもそも基礎画力がけっこう高くて、きちんと美術教育を受けているんじゃないかという印象がある。

 さてそんな中で、萌え絵とかこのあとどうすんのかなぁというのが僕の素直な感想ですね。エロゲもラノベもブームは過ぎたし、作家は多すぎだしデフレだし、岸田メル先生もイラストレーターじゃ食えないって言ってるし…。キャラクター消費は郊外化に付随しておそらく世界的な潮流だと思いますが、でも台湾とか、日本人以外にも萌え絵描ける人っていっぱいいるんですよね(むしろ最近はむこうのが上手い)。
 そういう意味でも一旦総括するうえで、ちょうどいいタイミングだったのかなという気がしました。10年後どうなってるかわかんないし。…というかぜんぜん他人事じゃなくて、たぶん漫画、ゲームとかはメディア環境の変化でこの先どうなるか本当に予測がつかないです。このすごく狭い世界に過剰適応しているのが「萌え絵」という文化なんですが、この先流れが味方してくれるといいなぁ…と祈るような気持ちにならざるを得ませんw

 あと最後に個別の作品についてですが、西又御大の絵は塗りの手間数がエロゲ絵のレベルを超えてる気がしました。さすがに最近一般パッケージ(米)とかやってるだけありますね。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110425/ent11042516080033-n1.htm

 自分がいちばん好きだった絵は、小梅けいとさんの作品です。秋葉原でメイドさんが客引きしてるっていうフツーの絵なんですが、なんか素直だし元気が出るし、いちばん衒いがない日本って気がした。いや小梅さんのことだから実は背後にものすごいエロ妄想が…とか言われるとアレなんですがw でも素直に良かったです。


関連記事:歴史と捏造

関連記事:京アニ版『CLANNAD』がエロいわけ ―Key作品受容の変遷―
  1. 2011/05/09(月) 02:55:00|
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郊外論としての宮崎駿。―「森」をキーワードに―

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 『フラクタル』や『星を追う子ども』でジブリ的イメージ(特にナウシカ)が反復されています。BRUTUSのジブリ特集では、宇野常寛が宮崎駿の作品を「少女」などをキーワードにして物語論的に振り返っていましたが、同人誌を作ってからあらためて宮崎駿の作品って郊外的だなーと思ったので、彼の経歴を郊外論として振り返ってみたいと思います。上述のパクリ問題についても説明できるでしょう。

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島本須美、納谷悟郎 他

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 よく、宮崎作品では「人間と自然」の対比が描かれていると言われますが、この対比は「キャラクター/キャラ」の対比とも読み取れます。
 宮崎作品で頻出するのは「森」のイメージです。『風の谷のナウシカ』では、人を寄せ付けない毒の森である「腐海」が登場しました(宮崎作品では海=森の見立て)。作中では、この森は人間たちの物質文明に対立する自然の象徴であり、はじめは畏怖の対象でしたが、物語のなかで次第にその森こそが人間の汚染を浄化しており、また豊かな生態系を築いていることが明らかにされます。「森」はいわばキャラのフィールドであり、宮崎作品では自然の多様性に仮託して王蟲など虚構のファンタジー的な想像力が発揮される場となっています。これに対して人間(キャラクター)の場である物質文明は、繁栄のために自然の生態系を破壊して、豊かさを簒奪するものとして露悪的に(ある意味リアルに)描かれます。人工/自然を対比して、人間の醜さと自然の豊かさを描くのが宮崎作品に見られる一貫した態度といえるでしょう。


人間=キャラクター=現実/自然=キャラ=虚構
 「キャラクター/キャラ」の対比とは、要するに「現実/虚構」の対比です。『ワールズエンド・ガーディアンズ』において、現代の若者たちは平坦な郊外を異化するものとして虚構の漫画やアニメに遊び、そこには魔法少女や「キャラ」たちの登場するさまざまな世界が広がっているということを述べましたが、宮崎は同じ操作を森を使って行っているのです。つまり平坦な郊外(現実)に対する漫画やアニメの多様性(虚構)が、宮崎作品では醜い物質文明(人工)に対する豊かな自然に仮託して語られているのです。

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 『となりのトトロ』では母親の結核の具合から、澄んだ空気を求めてまさに「郊外」に越して来る一家が描かれます。当時はまだ色濃かった武蔵野(や所沢などの複数のイメージと言われる)の豊かな自然、田園風景…そしてそれらを象徴する不思議なおばけたち。子供にしか見えないこのおばけたちの存在は、同じく『ワールズエンド・ガーディアンズ』でkei_exさんが述べた「あいだ」の想像力として見られるでしょう。人工的に整備された都市において、子供たちが遊びの中で生み出す都市伝説――これらはすみずみまで大人たちに設計された都市の「あいだ(破れ)」を発見して虚構的な想像力を働かせる作業でしたが、本義的には元来人智の及ばない自然に対して発揮されるものでした(いわゆる異界)。昔の人々は豊かな自然をキャラ化(おばけ、八百万の神々)して畏れ敬うと同時に、憧れも感じていたのです。

 宮崎は近年のインタビューにおいて「現代の子供は自然に親しんだ経験がない。炎が描けない」などと、子供たちが置かれている自然と切り離された状況を悲観しています。郊外の宅地開発が進み、森が失われて日本中が均一のロードサイド文化に覆われてしまったのが現状の「郊外化」の進行なわけですが、このようななかで実体験がなく、漫画やアニメしか見ないで育った子供たちが、そうした「虚構」を再生産している状況がある(シミュラークル、まんが・アニメ的リアリズム)。
 先に挙げた『フラクタル』や『星を追う子ども』はこうした文脈で捉えられるでしょう。山本寛も新海誠も70年代生まれであり、ジブリの拡大と成長が共にあった世代です。この2作は両監督にとってターニングポイントとなる作品でしょうが、『フラクタル』では昨今の閉塞した社会状況や、キャラクター消費への反動としての物語的な想像力の希求として「あえて」ジブリ的な意匠が選択されているように見えます。つまり山本寛にとっての虚構的な想像力(=自然)のルーツとして、実体験としての自然ではなく宮崎アニメが参照されているのです。

 こうした実体験の伴わない箱庭的な虚構を、おそらく宮崎は是としないでしょう。社会学者の宮台真司も「映画制作者が小さな仲間内で馴れ合っていて社会を知らず、作品に深みがない」と指摘しています。そんな中において、スーパーフラットや漫画・アニメ的リアリズムの現状を作品内に構造化した『魔法少女まどか☆マギカ』は上手くやったと言えるのかも知れませんが。

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 『天空の城ラピュタ』では、工業的な炭鉱都市に対して「自然」に対応するのは古代文明の遺産であるラピュタです。人工物であるラピュタが「自然」として見立てられるのはいわゆる「偽史的想像力」で、古寺仏閣や古来の伝統に対して神性を感じるのと同じ理屈。『東方Project』などがこの典型です。
 空中都市、飛行石、ロボットなどファンタジー的なギミック、キャラはすべて古代文明の側に属し、失われた技術(オーパーツ)として虚構的な想像力が発揮される。そしてそれらの虚構はラピュタの末裔であるヒロイン・シータというかたちで主人公パズーの前に提示され、いわゆるセカイ系の構図で現実/虚構の対比が描かれます。――結末として、2人はラピュタ(虚構)の崩壊を選び、飛行石と世界樹は天(自然)へと還ってゆく。
 同様に、『ナウシカ』でもナウシカは人工/自然の境界に位置する巫女(戦闘美少女!)として描かれています。少女をこのような境界線上の巫女として象徴するのは魔法少女ものの手つきと同様でしょう。

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(2001/06/08)
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 『魔女の宅急便』。魔女見習いのキキは、親元から離れて街に修行に出る。魔法少女であるキキは虚構を司る存在ですが、この物語では子供から大人へと成長していく過程で万能感にどう折り合いをつけ、地に足をつけて現実に馴染んでいくかが描かれます。途中、彼女は少女期の終わりとともに魔法を失いかけるが、トンボや絵描きのウルスラ、おソノさんなど街の人々との関わりのなかで「魔女の宅急便」として社会にアイデンティファイしてゆく。

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(2002/03/08)
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 『紅の豚』。主人公は豚(キャラ)。キャラであるという点で現実の関係性からズらされる(恋愛関係にならない)。豚の主人公を中心とした、宮崎の好きな飛行機を集めた第一次大戦後の偽史的な世界観。
 淡い恋心を抱いていたジーナは友人と結婚し、その友人は戦争で他界。そうした届かぬ想いが豚に象徴される。この呪いはポルコに好意を寄せるもう1人のヒロイン・フィオをめぐってカーチスと戦い、彼女の口づけを受けることで物語の最後に解かれることになる(と同時に物語が終わる)。

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(2002/05/24)
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 宮崎が脚本で参加した『耳をすませば』は、もっとも郊外色が強い作品です。『アニメルカVol.3』によれば、柊あおいの原作は少女漫画的な匿名的な郊外の物語だったが、劇場化にあたって物語の舞台を多摩丘陵の聖蹟桜ヶ丘近辺のニュータウンとしてディテールを作り込み、魅力的な街として描いています。この作品でも鍵になるのは「あいだ」の想像力であり、計画的に作られた都市の「あいだ」(ネコ、骨董屋、タンク山)を発見することによって、雫にとって見慣れた街(コンクリート・ロード)は輝かしいものに変化します。

 多摩丘陵近辺はジブリの会社が位置しており(小金井市)、高畑勲監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』でも舞台となっています。『ぽんぽこ』ではトトロ的な異界の存在である化け狸たちが主人公として描かれ、森を開発しようとする人間と戦います。結局狸たちは開発に追いやられ、人間に化けて現代社会に溶け込んでゆくのですが、しかし都市の「あいだ」には今でも不思議が残っているよ、ということが示唆されています。

もののけ姫 [DVD]もののけ姫 [DVD]
(2001/11/21)
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 『もののけ姫』。宮崎作品に通底する人工/自然の対立をもっとも端的に表した作品であり、この時点の宮崎の総決算的作品。森に人為的に介入するエボシたちタタラ場の人間たちと、豊かな森の象徴たる神々の戦い。そこにタタリ神の呪いを受けタタラ場に身を寄せるアシタカと、森の獣に育てられた少女のサンが絡むことで物語が展開する。人間たちは森の豊かさの象徴たるシシ神の首を落とすが、首を落とされたシシ神はダイダラボッチとなって森を飲み込んでゆく。思い上がった人間が大自然の怒りに触れるようすが描かれ、この事態は人間と自然の相の子であるアシタカとサンの手でシシ神に首が返されることでとりあえずの終息を見る。そしてアシタカは森を去り、サンは山犬とともに生きる道を選ぶ。

千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]
(2002/07/19)
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 『千と千尋の神隠し』。千尋は気乗りのしない郊外への引越しの道すがら、古い祠を通って異界へと迷いこむ(神隠し)。異界の旅館の主・湯婆婆に名前を奪われた千尋は、「千」となってこの宿で働くことになる。この宿を湯治に訪れるのは、トトロ的な異形の妖怪たちであり、日本古来の八百万の神々である。虚構の世界で過ごすなか、彼女は少年ハクやカオナシと出会い、物語の核心に迫ってゆく。この話の真相は、人間の開発の手が進むことで古来からの自然(ハレとケ)が失われ、象徴たる神々が衰退している(ケガレ)ということ。色々あって名前を取り戻した千尋は現実へと帰還する。しかしこうした「あいだ」に触れた彼女は、もはやフラットな郊外の風景の中に違うものを見出せるようになっていたのである。

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(2005/11/16)
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 『ハウルの動く城』。『もののけ姫』以降、宮崎作品はストーリーが曖昧になり、白昼夢的な妄想の側面が強くなってくる。これは東浩紀が動物化、データベース消費を提唱したのと同時期であり、直接の関係はないにしろともに「大きな物語の消滅」への応答と考えられる。『ハウル』では、タイトルにあるハウルの居城が歩いて移動することにより、物語がさまざまな世界を巡るパッチワーク的な様相を呈している。
 西の魔女の呪いにより老婆の姿となった主人公の少女ソフィーは、場面によって年齢が変化したりと「キャラクター」としての一貫性を失っている。この物語にあえてストーリーを見出すとすれば、これはソフィーがハウルの心を探す物語だと言えるだろう。作中の巡る世界自体がハウルの精神世界であり、虚構に満ちている。彼は魔法使いであり、姿形などは思うがままに変えられる。ソフィーはハウルの内面たる動く城に乗り込み、ともに世界を旅することで彼の本質を発見したのだろう。

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(2009/07/03)
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 『崖の上のポニョ』。よく「意味が分からない」と言われるポニョだが、郊外論として捉えると理解しやすい。基本にあるのは今まで宮崎作品で繰り返されてきた人工/自然の対立であり、港町での船と関わりの深い人々の暮らし(人工)と、豊かな生命を育む水の森たる海(自然)の関わりを描いているといえる。宗介のもとに海の化身たる魚の子・ポニョがやってくるところから物語がはじまるわけだが、ポニョは虚構的なキャラであると同時に、人間の少女の形態にも変化する。これはいわゆる「萌え擬人化」の文脈でとらえるとわかりやすいだろう。しかし、ポニョの愛らしさとは裏腹に、海は理不尽な大洪水によって港町を襲い、街は水没する。東日本大震災後に観ると戦慄だが、しかしこの作品において現実の津波のようなカタストロフは描かれない。水没後の世界はどこか虚構的であり、人々は非日常にありながらも楽しげだ。最終的に宗介は自分の母親を探して、ポニョの母親であり母なる海の象徴であるグランマのもとにたどり着くが、宗介とポニョを見て、2人の母はなんとなしに融和し、理解し合ったようになる。こうして非日常のまま、世界が日常に戻らずにエンディングを迎える。

借りぐらしのアリエッティ [DVD]借りぐらしのアリエッティ [DVD]
(2011/06/17)
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 最新作の『借りぐらしのアリエッティ』。宮崎は脚本で参加している。舞台はやはり郊外であり、人間の家の床下で小人の一家が人間のものを拝借して暮らしている。彼らは虚構の存在でありながら仲間がおらず孤立していて、人間に寄生しなければすでに種の存続すら保たれていない。人間の少年・翔は自分の病と重ねながら「君たちは滅びゆく種族なんだ」とアリエッティに言い放つ。これは、もはや現代では「あいだ」の想像力すら風前の灯であることを言い表しているように聞こえる。
 翔もまた弱い存在である。心臓病を抱え、無力感と先の見えない不安に苛まれている。宮崎は社会的自己実現の目標を失った現在の男子たちを「女の子より男の子のほうが大変だ」と評しているが、翔はまさにそんな少年たちの象徴として描かれているかのようだ。神木隆之介をモデルにしたといういでたちも、いかにも草食系男子然としている。そんな彼が「僕にも出来ることがあるかもしれない」として小人を救おうと奮闘するさまは、典型的なレイプ・ファンタジーだが、そのショボさがむしろ悲壮感を誘う。
 結局、小人の一家は床下を出ていくことになる。しかし翔の奮闘によって何とか小人の秘密は守られ、アリエッティは最後に翔とのわずかな交感を交わして庭ざかいの用水路に消えてゆく。また翔も、この出来事が過去の思い出として語られることで、手術に成功した事が暗に示唆される。この物語は、虚構が失われゆくなかでギリギリの撤退線を戦い、希望(アリエッティ)を未来に繋いだと言えるのではないか。


起源、「無意味な物質」としての宮崎アニメ
 このように、宮崎作品を貫くメタテーマが一貫して「キャラクター/キャラ」であり、虚構は森を依り代として展開されてきたことを指摘したいと思います。しかし、こうしたテーマ設定は既に時代に合っていないと僕は感じています。もはや世界は総郊外化し、ポストモダンで自然体験はむしろ宮崎アニメからという世代が大勢を占めるようになってしまった現在、そのような文脈において宮崎アニメが自然を礼賛することは「サツキとメイの家」や「三鷹の森ジブリ美術館」を現実に現前させてしまうような皮肉なキャラ消費にしかつながらない気がします。
 そうではなく、シミュラークルとまんが・アニメ的リアリズムに覆われてしまった世界でどう豊かさを生み出すかということが現在問われるべきなのであり、山本寛や新海誠を含む多くの若手作家は既にそうしたフェイズに入っているように思います。

 ただ、宮崎作品は若手の視聴者と同世代の作家とは違う語彙を用いているからこそ魅力的に映る、という事情もある気がするので、そこの関係はトレードオフなのかなとも思います。「作品は先行する時代に片足を突っ込みつつ古びていく」(福嶋亮大)
  1. 2011/05/05(木) 22:35:00|
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成長しない少女漫画。感動しかない二次創作。

前の記事で「少女漫画には明確なアティテュードが無い」と書きましたが、これは女性性に起因してるのかなと思いました。

たとえばジャンプ漫画のような古典的な少年漫画は「友情・努力・勝利」があれば夢は叶う、あるいはオタク系のセカイ系や決断主義はそれぞれ「恋愛関係を神聖視する」「島宇宙化を引き受けたうえで戦う」というわかりやすい物語構造がありました。これに対して少女漫画にはそのような分かりやすいストーリーは無く、ただひたすら恋愛に絡んだ人間関係があるのみです。

これはある意味では、少女漫画では「成長が描かれない」ということなのかなと感じました。たとえば『君に届け』での爽子と風早の恋愛関係は爽子の成長物語のように見えますが、実際には風早が好きなのは爽子の純朴なところであり、その意味で爽子は打算的な性格になったりはせず、開始時からまったく変化していません。また『放浪息子』でも、二鳥くんと周囲の人間関係は年を経て変化していきますが、彼の性格は相変わらずであり、性倒錯に関しての明確な答えもいまだ定まっていません。

少年漫画では、主人公は開始時の状態からさまざまな経験を経て成長してくことが定番となっていますが(実際持ち込みでそういう指導を受けたことがある)、少女漫画ではそれはかならずしも自明ではない。そもそも少女漫画のテーマである関係性において、それが上手くいったからといってロールモデルが抽出できるわけではないし、人間的に成長したとも言えない気がします。

これを一般化すると、要するに「社会はこうなっている」と考える男性と、「私はこう思う」と考える女性の違いなのかなと感じます。男性は社会の流れをあれこれ理屈づけて構造化し、それにうまく自分を合わせようとしますが、女性はそうは考えず、自分の気持ちを基準にして周囲の人間関係を相対化し、その中で生きやすいように振舞っているように感じます。したがって男性は理想に自分を近づけるという形なので成長モデルですが、女性はあくまで自分の価値観を中心として考えるので関係性モデルなわけです(Twitterでも男性の呟きは理屈っぽく、女性は気分が多い)。

こうした点がたとえば自殺するのは男性が多かったり、地震の買占めは女性が多かったりという違いに繋がっているのかなという気がします。また、女性のほうが同人活動が活発であったり、そしてそこで描かれるのはもっぱら物語ではなく「山なし・オチなし・意味なし」に代表される二次創作であり、アニメキャラクター達の感動ベースの関係性(つまり答えがない)であるというのは、こうした感性に起因しているのかなと感じました。
村上春樹が比較的女性に読まれるのも、物語がないからかも知れません。

また、『ちはやふる』のように少女漫画の一部で部活ものが流行っていますが、一見成長ものがたりに見えるこれらもその根底にあるのは部活を通した人間関係であり、大会で優勝などの成長物語はこの関係性維持の方便として(つまりずっとみんなでいるために)使われているように思います。
  1. 2011/04/09(土) 00:15:00|
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『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(下)


『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(上)

(上)ではこういう事を述べました。

・「病気/健常」「普通/異常」「男/女」などの線引きは社会的(便宜的)であること。
・概念とはグラデーションであり程度問題がつきまとうこと。
・二元論的な割り切りは便宜的であり、視野が狭い(中二病)。
・ゆえにトランスジェンダーが先天性であれ、問題は無い。


Twitterを見ていて思うんですが、世の中に「普通の人」っていないんだなぁーと。みんな普通の人たちだと思うんですが、1人1人を取り出してみるとけっこうアクが強いもんだなぁと感じます。たぶん世の中ってそういうもんで、いろいろあってもまぁ何とか暮らせているかぎりは「普通」なんだと思います。それがどっかの知事みたいに偉くなって、個人が注目されてしまうと個性だか欠点だかが目立ってくるんだろうなと…。

トランスジェンダー当事者についてはそんな感じですが、次は倒錯“趣味”について考えます。『放浪息子』もそうですが、こういう性倒錯ものを好んで消費することは異常なのか?


やおい消費
性倒錯消費といえば有名なのはやおい(ボーイズラブ)ですね。やおい消費に関してよく言われるのはこれ。

かつての少年愛作品に対しては、思春期の少女が(既存の)女らしさに対し自己嫌悪を抱き、男になって男を愛したいと思うことが発生の背景にある、と言われていた。たとえば、唐沢俊一は、やおい及びBLは女性が自らの女性性を嫌悪した結果生み出されたとよく説明している。本人もやおいを手がける中島梓も、『タナトスの子供たち』において同種の説明をし、社会学者上野千鶴子やユング派心理学の第一人者河合隼雄もやはり同様の趣旨のことを述べており、いままでは最も一般的な説明であった。この嫌悪感については、社会の女性蔑視が女性である少女自身に内面化された結果であるとされる。

Wikipedia「やおい」
『タナトスの子供たち』では、同性“であるにも関わらず”好きだというところに超越性を見出す、異性愛よりも崇高なものを見出すというようなことが書かれていたように思います。宮台真司も似たようなことを言っていて、自分の性愛体験から距離を置いて関係妄想に浸る工夫であるとしています。その他の意見としては「異性愛の安全なシミュレーション」であるとか、そのものずばりトランスジェンダーに消費されているというものもあります。

よく言われるカップリングですが、これは男子のホモソーシャルな関係性を「こいつら仲いいな→付き合っちゃえよ」と発展させたもの。このインフレ的な愛情を少年漫画などに事後的に見出す視点が、腐女子が「腐っている」由縁なわけですが、まあ実際男から見てもあれはヤバイと思う界隈もあるのであながち間違いとも言えないでしょうね。ただ友情をすべからく愛情として見るのは、先の例同様中二病的ではあります。それ自体「ガチ/ネタ」というグラデーションの留保がつくんでしょうが。
またライトなBLになるほど受けが女男だったりと、「異性愛の安全なシミュレーション」としての側面が強くなっている。「やおい穴」なとがその典型でしょう。これは作家にとってはファンタジーという側面もあるのでしょうが、消費する側にとっては無知ゆえに変に思わないという可能性が否定できない。まぁ間違っているから良くないとは思わなくて、これを叩き台に正しい知識に誘導できればいいと思うのですが。無菌状態がいちばん良くない。

一方、そんなやおいを消費する腐女子のコミュニティに対してはこんなことが言われている。

社会学者の東園子は、腐女子が形成するコミュニティを女性版のホモソーシャルと解釈できるとしている。ホモソーシャルとは文学研究者・社会学者のイヴ・セジウィックが提唱した概念で、男性同士で友情をはじめとする社会的なつながりが形成されてその間で女性は貨幣のように交換されるという構造を持ち、ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)という2つの特徴がある。腐女子のコミュニティでは、通常のホモソーシャルの枠組みにおいて女性が貨幣として交換されていたかわりに、物語の中の男性が欲望の対象として女性同士の間で交換される。(通常の男性の)ホモソーシャルにおける女性嫌悪についても、これを異性嫌悪と読み替えれば、(物語の中ではなく現実の)男性に対する嫌悪として腐女子のコミュニティに間に存在している(やおい系の同人雑即売会で男性の入場が禁止される例など、現実の男性を排除する傾向がある)。

Wikipedia「腐女子」
ホモソーシャルな男社会では、女や萌えキャラの話題はコミュニケーション円滑化のために貨幣として交換される。腐女子もこれと同様に、やおい話として男を貨幣化しているという指摘です。女子会など、腐女子にかぎらず同性でつるむ流れは強まっており、若者が恋愛から退却しているという話はよく言われています。

同性でつるむといえば百合(レズビアン)もありますが、百合は女性だけでなく男性の消費も多いジャンルです。


男の娘と草食化
さて『放浪息子』ですが、これはジャンルとしては男の娘ものであり、やおいや百合の同性愛ではなくトランスジェンダーです。トランスジェンダーは漫画のネタとしては珍しいものではないですが、ここにきて「男の娘」という名前でフィーチャーされるようになったのは何故なのか。

僕はこのベースにいわゆる男子の「草食化」があると考えます。宮台真司によれば、90年代の援助交際ブーム以降女子が「肉食化」し、男子はリスクを恐れて性愛コミュニケーションから撤退する草食化が起こった。これがジェンダーかく乱の第1段階。そして彼らの中には内面だけでなく、外見も線の細い女の子のような少年たちがいた。ここから「こんなに可愛い子が女の子のわけがない」と飛躍するまであと1歩でしょう。これが第2段階。特に妄想のなかではこの飛躍は容易であり、男の娘としてジャンル化されるようになった。したがって『らんま1/2』や『ストップ!! ひばりくん!』よりも、現在の男の娘作品は社会的背景が色濃いように思います。

ところでアニメ『放浪息子』の話の中心は恋愛や人間関係であり、トランスジェンダーとしてのアイデンティティではありません。したがって僕はこの物語をやおい・少女漫画的な関係性の文学であり、『エヴァンゲリオン』的な自分さがしの物語ではないと捉えました。少女が肉食化し、少年が草食化するなかで、「少女」的な要素が男性に見られるようになった現実を少女漫画が追認したのだと思います。

少女漫画はオタク系と違い、「セカイ系」や「決断主義」のような明確なアティテュードがありません。セカイ系や決断主義は、読者がそれを規範として内面化することができますが、『放浪息子』の二鳥くんの態度を抽出してロールモデル化するのはたぶん難しいでしょう。よく言われるように、少女漫画は「これってあるある」的なシーンの寄せ集めであり、現実社会で起こりつつある予兆を敏感に感じ取り、それを劇画化して気分を一般化するのがもっぱらの役目です(まどマギの杏さや二次などは典型的)。


「普通」をめぐる駆け引きと運動
さて核心に迫ります。倒錯好きは異常なのか。
年末年始にかけて話題になった都条例(いわゆる非実在青少年)問題に顕著なように、漫画やアニメに描かれる性行為を不健全であると感じ、規制しようと考える人々が一定数おり、当然やおいなど性倒錯ものもこの対象となります(ちなみに18歳以下という制限も取っ払われた)。要約すると子供に悪影響を与えるというのがその主旨です。

僕は「影響を与える」という点には同意します。『ワールズエンド・ガーディアンズ』の郊外論で述べたように、若者たちのメンタリティは郊外のポップカルチャーに色濃く影響されており、それを規範として生きているのはありありとしています。
しかし、漫画、ゲームやアニメだけを規制するのは反対です。なぜなら若者に影響を与えるのは、彼らの身の回りにあるすべてのものだからです。たとえば無菌化した郊外の環境のせいで応用力のない子供が育ち、学校で「夢を持ってがんばれ」と教えられた結果進路選択を誤り、親のいいつけを守った結果就職が困難になっている現状で、なぜ漫画やアニメだけが「悪」とされ、親や学校や教師が規制されないのか?意味がわからない。

これについては、都知事である石原慎太郎の経歴がもっとも雄弁に答えを語っていると思います。難ですが若くして有名になった石原ほど、言動のトレーサビリティの高い人間もあまりいません。
「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう」と同性愛者を蔑視し、「幼い子の強姦があり得べきストーリーとして描かれているものは何の役にも立たないし、百害あって一利もないと思う」と断ずる石原ですが、著作に見られるように彼自身もかつて強姦をテーマとして扱い、また買春経験なども披露しています。「いかなる書物も子供を犯罪や非行に教唆することはない」と記したこともありました。

しかし彼は、この記述をこの度の騒動で撤回し「そのころ私は間違っていた」と発言するに到ります。正直、この流れはある程度理解できます。理由としては

1.若い頃は世界が狭く、年上に対して反発心や自由への渇望があった。
2.親や監督する立場となり、状況の酷さを理解した。
3.時代が変わり、世の中の規範が変化した。

といったところでしょう。こう考えると彼に限らず世の中の大人が自分の若い頃を顧みず、子供の行動を規制したがる構図が納得できます。
特に3についてですが、基本的に世の中の規範というのは、リベラルな世の中ではだんだんと緩くなっていくものだと思います。規範(ルール・マナー)があれば、必ず誰か楽をするために破るヤツが現れて、それがなし崩し的に普通になっていく。したがって、年長者にとっては年下は常にだらしなく感じられるわけです。

べつに僕も性倒錯にハマってるわけじゃないので、やおいを嬉々として消費し、性愛から退却して同性で固まり、草食化して男の娘になってる現状を「望ましい」とは思っていません。でもネイティブにとっては、それが「普通」であり幸せなのです。かくして「普通/異常」という視点に関して石原―僕―腐女子、あるいは石原―僕―トランスジェンダーというグラデーションが出来上がるわけです。

二鳥くんのように今はまだぼんやりとした好みでしかなくても、それはやがて分かち難く実存と結びつき、自分の人生に影を落として選択を迫ってくる。そうして他の可能性を捨て、負のレッテルも込みで選択を受け入れたときに、僕たちはファッションを卒業して真性の“それ”になるのでしょう。
“それ”になったからには、「私変態なんで…」とか自虐せずに、年長者の規範から自分の「普通」を勝ち取らなくてはならない。そしてそれと同時に、そんな自分が幸せでいられる、時代に合った新しい生き方も探していかなきゃいけない。そう思います。
  1. 2011/04/02(土) 02:10:00|
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『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(上)

ひさしぶりの更新になります。
さて、僕がこれまで考えてきた問題(物語論・キャラ論)については『ワールズエンド・ガーディアンズ』でひととおり片がついたので(本買ってください!http://tinyurl.com/6a5ns35)、これからは新しいことについて考えたいと思います。
新しいテーマは「女性性」「クリエイタードグマ」です。この2つは非論理的という意味でなかなか今までの論法では手を出せない分野でしたが(批評を嫌っている分野でもあります)、これまで考えてきたキャラ消費などを手がかりに掘り下げていきたいと思っています。

一発目の題材はアニメ『放浪息子』です。

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畠山航輔、瀬戸麻沙美 他

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志村貴子の漫画が原作のこの作品は、「性倒錯」をテーマにした群像劇です。主人公の二鳥は“女の子になりたい男の子”であり、彼の恋人である“男の子になりたい女の子”の高槻さんや、彼らを取り巻くクラスメイトたちとの淡い関係性のドラマが思春期の1ページ的に描かれています。志村は『青い花』など百合、ボーイズラブを扱う少女漫画の文脈の作家だと思いますが、それの「男の娘」版がこの『放浪息子』だと言えるでしょう。

出来のいい本作品ですが、その割に「入らないな」というのが正直な感想です。というのも自分が思春期時代、性倒錯的な感情を一切持ったことがないのが理由だと思います(作中のポジションで言うと、僕は千葉さんみたいなヤツでした。さおりん萌え!)。ようするに、僕は志村の描く魅力を直感的に分からない人間なのですが、いい機会なので性倒錯について踏み込んで考えてみたいと思います。草食系男子とか非実在青少年条例とか、流行りのトピックにも繋がるでしょうし。


性倒錯は病ではない?

「女っぽい男」はその人の性格であり、「男を好きな男」は同性愛であり、「女の格好をした男」は女装であり、それぞれは全て別々で異なる概念である。

Wikipedia「性同一性障害」より http://tinyurl.com/5u4r7h2
性倒錯は差別に晒されてきた概念であり、言及には非常に神経質なジャンルです。そのため差別的なニュアンスを避けるために語彙が乱立し、それが余計に部外者による言及を敷居の高いものにしています。
大まかには性倒錯を染色体異常などの疾患(性同一性障害)とみなす見方と、たまたま自分の身体とは異なる心の性別を持っている現象(トランスジェンダー)とみなす見方があり、当然ですが当事者はトランスジェンダーの立場を好みます。
彼らの言説はNHKの福祉番組『ハートをつなごう』などに見ることができ(http://www.tokyowrestling.com/articles/2008/04/nhk_heart1.html)、それによれば彼らは「トランスジェンダーは普通であり、障害者ではなく、あくまで普通の人間として扱ってほしい」という立場を強調します。心情としてはよく分かるのですが、僕はその主張は「男女」のみならず、「普通」という概念に対する根本的な問いかけになっていることを意識せざるを得ません。

「普通」って何だ?
もはや言葉の限界とか認識論の世界だと思うのですが、そもそも「普通」とは何でしょうか。僕は感覚的に10人中過半数が選ぶ選択が「普通」なんだろうと感じていますが、こういう答えはおそらく日本的でしょうね。マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室』に見られるように、海外では人種も風俗も異なる民族が共存している状態こそが「普通」であり、その中で多数派を占める単一的な集団が"standard"ではあっても"normal"とは言わないと思います。そのため常にマイノリティとの関係性が問題の焦点になっている。
自由主義(リベラリズム)においては、こうした問題は「公正」の概念として整理されています。つまり「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という「立場入れ替え可能性の確保」の問いが根本にあり、その具体的な回答としてマイノリティへのアファーマティブ・アクションなどが実施されている。

ひるがえって日本では単一的な民族性のために、異なる習慣をもつ人々と共存している感覚がありません。そのため普通=standardが一種の「型」のようになり、その型を外れる人間は異常=abnormalとして共感不可能な彼岸に置かれてしまう実情があるように思います。

このような社会においてトランスジェンダーは二重苦だと言えるでしょう。なぜなら日本において「普通」とは漠然とある一般人(日本人)の型をはみ出さないことであり、それは突き詰めれば「自己主張をしない」ということだからです。在日特権を主張した瞬間にその人は普通ではなくなり、政治的な話をした瞬間に普通ではなくなり、果ては場の空気が読めなくなった瞬間に普通ではなくなるのです。よく言われることですが、日本社会では民族的な単一性が自明と見なされているために、コミュニケーションの共感可能性が「普通/異常」の分水嶺になっている感覚が強くあります。それは欧米においてトランスジェンダーが「健常者/病人」の審級にかけられており、「健常な普通の人」としての権利拡大(同性婚など)の運動を展開しているのとは隔世の感があると言わざるを得ないでしょう。日本において「普通」とは凡庸で個性を主張しないことであり、「トランスジェンダー」という個性を強調しながら「普通」を主張するのはナンセンスなのです。

『放浪息子』ではこのへんの機微がよく描かれています。男装趣味の更科さんは、変わり者ではありますがセクシャル的には健常であり、立ち回りも上手いのでそれほど周囲からは浮いていません。高槻さんはトランスジェンダー的なメンタルを抱えているものの、思春期少女の性倒錯はある程度ファッションとして認知されているからか、それほど問題視されません。それに対して二鳥くんの女装は大騒ぎになり、彼は学校でのそれを禁じられていじめに遭いました。今の世の中のぼんやりとした「普通」のしきい値が男の娘のあたりにあることを表しています。

中二病としての性倒錯
もう1つ気になるのは、その「ファッションとしての性倒錯」という側面です。
前提として、まずトランスジェンダーの中核である性同一性障害は身体由来であり、(それを異常と捉えるか/普通と捉えるかはともかく)個人の趣味や環境要因による後天的なものでないということは言われています。

原因ははっきり分かっていないが、胎児期に外部からのホルモンに曝されるなど、何らかの原因で体の性とは異なった方向に、脳の性分化が進んだという説(ホルモンシャワー説)が知られている。家庭での育て方の問題ではなく、いくら説得しても「男(女)らしくしろ」と叱っても、精神療法によっても、心の性は変えることが出来ないとされている。

性同一性障害を持つ者と持たない者との比較において脳内の特定部位の形状の差異が見られた例は、以前から複数報告されていた。例えば、人間の性行動に関わりの深い分界条床核は、男性のものは女性のものよりも有意に大きいが、6名のMtFの脳を死後に解剖した結果、分界条床核の大きさが女性とほぼ同じであった。

男性ホルモンに関わるアロマテーゼ遺伝子、アンドロゲン受容体遺伝子、エストロゲン遺伝子の繰り返し塩基配列の長さを調べた結果、MtFではこれが長い傾向を示した。これは、男性ホルモンの働きが弱い傾向であることを示している。

しかし僕が思うのは、世の中はグラデーションであり、そう二元論的に割り切れるものでもないだろうということです。
僕が述べるのはメタ批評的な話で医学的な実用性は薄いでしょうが(でもそれなりに有意味だと思うから言うのですが)、世の中の概念というのは必ずしも普遍のフォーマットを持つのではなく、常にある程度の揺らぎを持った集合的なものとして捉えられるわけです。したがってホルモン異常にしても染色体異常にしても、「普通/異常」「男/女」という二元論ではなく、厳密には常に程度問題がつきまとうはずなのです。そして境界線の/というのは便宜的なものにすぎません。たとえばトランスジェンダーでは性分化疾患との絡みで「第三の性(中性)」を自認する立場もあるし、分界条床核の性分化は後天的だという立場もあります。

これらは医学的診断を伴う性同一性障害については、ある程度しきい値としては機能しているでしょうが、しかし本人の自認に基づくトランスジェンダーでは益々グラデーション化を避けられないでしょう。「トランスジェンダー」という言葉は疾患としての「性同一性障害」という差別ラベリングを忌避するために当事者によって持ち出された言葉だそうですが、なかばマジックワード化しているために『放浪息子』で描かれるようなファッションとしての性倒錯を是認せざるを得ません(たとえば、性同一性障害においては統合失調症による妄想などに対する除外診断が行われますが、トランスジェンダーは自己申告のため顧みられません)。したがって凝り固まった男/女の観念を持つ道徳主義者には異常(病気)であり嫌悪の対象となるのです。

気になるのは、こうした性倒錯フォビアや、トランスジェンダーを声高に叫ぶ当事者ほど「性」や「普通」の概念の曖昧さに無自覚なように見えることです。たとえば僕なんか一応ノーマルな男性ですが、昔からクラスの「普通」の価値観には馴染めなかったし、リア充共死ねよと思って生きてきた(笑うとこです)。対照的にトランスジェンダーの中には外見からして僕よりよっぽどマッチョな人や、女の子より女らしい人もいる。正直、当初その振る舞いがとてもパターナリスティックでロールプレイ的に見えたのは否定しません。

ようするに中二病じゃないかと思ったんですが、『ワールズエンド・ガーディアンズ』で言及したように中二病は「普通」が前景化したフラットな郊外での異化作用という側面が拭いがたくあります。均質的な郊外においては学校の成績や住宅の価格など、小さな差異を見つけては延々差異化ゲームが繰り返される。このような「普通」の抑圧に対する反動が中二病であり、「オレは普通の人間とは違う」「選ばれた特別な存在である」といった屈折した自意識を形成するわけです。この延長線上で性倒錯を考えたわけですが、あくまで「グラデーションである」と前置きした上で言えば、ファッション的なトランスジェンダーの中にはこうした傾向が強いのではないかと予想します。世の中の多様さを知らないがゆえに、自分の設定した「普通」「男」「女」にこだわって自縄自縛になってしまっているタイプ。

人の性別はどこに存在するか。たとえ性分化疾患の当事者でも、男性もしくは女性としての、どちらかの確かなアイデンティティーがあり、本人の自己意識も確かめずに周りの他者がその人間の性別を恣意に決定することはできない。現に、性分化疾患を患って出生した乳児が、その場の医師によって恣意的に性別を決められて手術を施され、“たまたま”反対の性別にされた当事者が乳児期以後、アイデンティティーとの不一致によって苦悩するという多くの実例があった。これは性同一性障害にも共通する苦しみでもある。例えばこの性分化疾患の当事者に対し、他者が「医師が“何となく”であなたをその性別と決めて性器の見た目もそれらしく作ったのだから、その性別で生きろ」などと言えようはずもない。以上の事例や経緯によって、「身体の性」と「心の性」はそれぞれ別個であり、ひとえに「身体」が人の性別を決定づける根拠とはならないことが明らかとなった。

性同一性障害を抱える者は、もし生来から自身の性同一性と同じ性別の身体で生まれてさえいれば、何ら違和感を持つこともなく普通にその性としての人生を過ごしてきたはずであり、人格やアイデンティティーが“途中で変わった”わけではない。当事者は「(心身ともに)異性になりたい」のではなく、「本当は女性(男性)なのになぜ身体が男性(女性)か」という極めて率直な感覚を胸中に持っていることも多く、当事者自身にとっての「本当の性別」とは、まさしく自分を自分たらしめるアイデンティティーにしたがった性別である。

異性装をする者は、純粋にそれを楽しむためや、あくまで趣味と捉えていることが多い。性同一性障害を抱える者は、家族との関係や仕事の雇用、外科的手術、戸籍上の名や性別の変更など、一つの人生そのものに深く関わる問題で、とても趣味や楽しみと呼べるものではない。

社会や文化における男女の扱いの差を無くしたとするならば、性同一性障害者の苦悩も無くなり「治る」のかといえば、それは決してない。もし仮に撤廃が実現したところで、現実的、物理的に自身の身体は確然と存在し、身体的性別に対する違和感、嫌悪感を取り払うことにはならない。またなにより、それらの苦悩は単なる好き嫌いや損得ではなく、その人自身の持つアイデンティティー(同一性)が基底にある。性同一性障害の抱える問題と性差の撤廃とは、根本的な相違がある。

なお、性同一性障害に対し、「心のほうを身体の性に一致させる」という治療は、以下の経験的、現実的、倫理的な理由によりおこなわれない。

●性同一性障害の典型例では、過去の治療において成功した例がなく、ジェンダー・アイデンティティの変更は極めて困難だと判明している。性同一性障害は生物学的な要因が推測され、そのような治療は不可能と考えられている。
●性同一性障害者自身はジェンダー・アイデンティティの変更を望まないことが多いので、治療の継続が困難である。
●ジェンダー・アイデンティティは人格の基礎の多くを占めており、人に対する人格の否定につながる。

また、性同一性障害の原因は身体とは反対の性への脳の性分化が推測されているが、例えば「脳を身体の性別に一致させる」などという脳に対する外科手術は現在の医療水準では不可能であり、またたとえ仮に可能であったとしても倫理的に大きな問題がある。

↑長いので読み飛ばしてもらって結構ですが、ようするに、Wikipediaの性自認、性同一性に関する記述はひどくナイーブで文学的です。これはつまり、医療の分野では人間の心はアンタッチャブルだど言っているように見える。
個人的には、この考え方には違和感があります。男/女の区分なんていう生物学的なものを内面化して再強化してるのは良くないし、極端な話男女の性別を逆の意味で教育されたら直しようがありません。「アイデンティティ」という言葉が連発されていますが、キャラ消費の時代においてアイデンティティという概念がいまだに有効なのかも疑問です。

キャラ化する男/女
あまり僕はトランスジェンダーを先天的な素養とする立場をとりません。というより、その程度の差異であればいくらでも環境要因で改変されうると考えているからです。たとえば、最近男子の草食化が言われていますが、それは女性が強くなった社会への適応ではあれ、染色体異常やホルモン異常ではないでしょう。同様に二鳥くんのトランスジェンダーも環境要因的な側面が強く描かれていると思います。彼のような可愛いタイプの男子は女子に人気があり、可愛がられるなかで女性的な感性になっていくというのは個人的な経験からもある流れだと思っているからです。また日本には古来から「衆道」という文化があり、同性愛はある程度「普通」のこととして受け取られていた。奇異の視線で見られはするものの、いまだにその流れは変わっていないように思います。

●より社会へ適応するため、あるいは違和感や嫌悪感から逃れるために性自認を抑え込み、身体的性別に応じた過剰な男性性または女性性の行動様式を取ろうとする場合もある。
●自身が反対の性の容貌や外性器を持っているという確然たる事実や、当然のように身体的性別で扱われる環境にあって、姿形の見えない性自認はそれだけでは不安定であるため、性自認に基づく男性性または女性性の行動様式を過剰に取ろうとする場合もある。

先のロールプレイの話に戻ると、性を二元論的に捉えたときにキャラ過剰に演じてしまうのは仕方ないのかな、という気はします。それはトランスジェンダーに限らなくとも、三島由紀夫が中年マッチョになったのもそうだし、女の子がキャラ過剰に女性性や少女趣味に目覚めるのもそうなのでしょう(逆にそれを「女装」と自嘲する女性もいる)。ただしそれはカギ括弧で括られた「男性」「女性」像であり、とても郊外的な匂いを感じます。トランスジェンダーが先天性のものであるなら、なおさら便宜的な社会規範にすぎない「男性/女性」を内面化しないほうがよいのではないか。

性自認が先天的にしろ、環境要因にしろ、あるいは偶然にしろ、トランスジェンダーがトランスジェンダーであることによって感じる違和感と、トランスジェンダーが中二病であることによって感じる思春期の違和感はある程度分けて考えるべきじゃないかと感じます。そして中二病(思春期的心性)に対しては、学校を中心とする狭量な価値観の外にも世界が広がっていることを見せてあげれば、成長していくなかでどこかにランディングするでしょう。

おそらくトランスジェンダーもグラデーションなので、躍起になって異性装してる人ばかりじゃないのだろうなという気はしています。そしてそのほうが生きやすいのだろうなとは思う。日本はコミュニケーション至上社会ですが、逆に言えばコミュ強者である限りは「普通」なのです。ガチではなくネタとして消費可能なら異性装は武器にすらなるでしょう(それはにとりんのモテぶりが証明済み)。

長くなったので一旦切ります。後半は消費される側面の性倒錯、やおい好きや非実在青少年との絡みで論じる予定です。


続き↓
『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(下)
  1. 2011/03/28(月) 22:00:00|
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