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成長しない少女漫画。感動しかない二次創作。

前の記事で「少女漫画には明確なアティテュードが無い」と書きましたが、これは女性性に起因してるのかなと思いました。

たとえばジャンプ漫画のような古典的な少年漫画は「友情・努力・勝利」があれば夢は叶う、あるいはオタク系のセカイ系や決断主義はそれぞれ「恋愛関係を神聖視する」「島宇宙化を引き受けたうえで戦う」というわかりやすい物語構造がありました。これに対して少女漫画にはそのような分かりやすいストーリーは無く、ただひたすら恋愛に絡んだ人間関係があるのみです。

これはある意味では、少女漫画では「成長が描かれない」ということなのかなと感じました。たとえば『君に届け』での爽子と風早の恋愛関係は爽子の成長物語のように見えますが、実際には風早が好きなのは爽子の純朴なところであり、その意味で爽子は打算的な性格になったりはせず、開始時からまったく変化していません。また『放浪息子』でも、二鳥くんと周囲の人間関係は年を経て変化していきますが、彼の性格は相変わらずであり、性倒錯に関しての明確な答えもいまだ定まっていません。

少年漫画では、主人公は開始時の状態からさまざまな経験を経て成長してくことが定番となっていますが(実際持ち込みでそういう指導を受けたことがある)、少女漫画ではそれはかならずしも自明ではない。そもそも少女漫画のテーマである関係性において、それが上手くいったからといってロールモデルが抽出できるわけではないし、人間的に成長したとも言えない気がします。

これを一般化すると、要するに「社会はこうなっている」と考える男性と、「私はこう思う」と考える女性の違いなのかなと感じます。男性は社会の流れをあれこれ理屈づけて構造化し、それにうまく自分を合わせようとしますが、女性はそうは考えず、自分の気持ちを基準にして周囲の人間関係を相対化し、その中で生きやすいように振舞っているように感じます。したがって男性は理想に自分を近づけるという形なので成長モデルですが、女性はあくまで自分の価値観を中心として考えるので関係性モデルなわけです(Twitterでも男性の呟きは理屈っぽく、女性は気分が多い)。

こうした点がたとえば自殺するのは男性が多かったり、地震の買占めは女性が多かったりという違いに繋がっているのかなという気がします。また、女性のほうが同人活動が活発であったり、そしてそこで描かれるのはもっぱら物語ではなく「山なし・オチなし・意味なし」に代表される二次創作であり、アニメキャラクター達の感動ベースの関係性(つまり答えがない)であるというのは、こうした感性に起因しているのかなと感じました。
村上春樹が比較的女性に読まれるのも、物語がないからかも知れません。

また、『ちはやふる』のように少女漫画の一部で部活ものが流行っていますが、一見成長ものがたりに見えるこれらもその根底にあるのは部活を通した人間関係であり、大会で優勝などの成長物語はこの関係性維持の方便として(つまりずっとみんなでいるために)使われているように思います。
  1. 2011/04/09(土) 00:15:00|
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『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(下)


『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(上)

(上)ではこういう事を述べました。

・「病気/健常」「普通/異常」「男/女」などの線引きは社会的(便宜的)であること。
・概念とはグラデーションであり程度問題がつきまとうこと。
・二元論的な割り切りは便宜的であり、視野が狭い(中二病)。
・ゆえにトランスジェンダーが先天性であれ、問題は無い。


Twitterを見ていて思うんですが、世の中に「普通の人」っていないんだなぁーと。みんな普通の人たちだと思うんですが、1人1人を取り出してみるとけっこうアクが強いもんだなぁと感じます。たぶん世の中ってそういうもんで、いろいろあってもまぁ何とか暮らせているかぎりは「普通」なんだと思います。それがどっかの知事みたいに偉くなって、個人が注目されてしまうと個性だか欠点だかが目立ってくるんだろうなと…。

トランスジェンダー当事者についてはそんな感じですが、次は倒錯“趣味”について考えます。『放浪息子』もそうですが、こういう性倒錯ものを好んで消費することは異常なのか?


やおい消費
性倒錯消費といえば有名なのはやおい(ボーイズラブ)ですね。やおい消費に関してよく言われるのはこれ。

かつての少年愛作品に対しては、思春期の少女が(既存の)女らしさに対し自己嫌悪を抱き、男になって男を愛したいと思うことが発生の背景にある、と言われていた。たとえば、唐沢俊一は、やおい及びBLは女性が自らの女性性を嫌悪した結果生み出されたとよく説明している。本人もやおいを手がける中島梓も、『タナトスの子供たち』において同種の説明をし、社会学者上野千鶴子やユング派心理学の第一人者河合隼雄もやはり同様の趣旨のことを述べており、いままでは最も一般的な説明であった。この嫌悪感については、社会の女性蔑視が女性である少女自身に内面化された結果であるとされる。

Wikipedia「やおい」
『タナトスの子供たち』では、同性“であるにも関わらず”好きだというところに超越性を見出す、異性愛よりも崇高なものを見出すというようなことが書かれていたように思います。宮台真司も似たようなことを言っていて、自分の性愛体験から距離を置いて関係妄想に浸る工夫であるとしています。その他の意見としては「異性愛の安全なシミュレーション」であるとか、そのものずばりトランスジェンダーに消費されているというものもあります。

よく言われるカップリングですが、これは男子のホモソーシャルな関係性を「こいつら仲いいな→付き合っちゃえよ」と発展させたもの。このインフレ的な愛情を少年漫画などに事後的に見出す視点が、腐女子が「腐っている」由縁なわけですが、まあ実際男から見てもあれはヤバイと思う界隈もあるのであながち間違いとも言えないでしょうね。ただ友情をすべからく愛情として見るのは、先の例同様中二病的ではあります。それ自体「ガチ/ネタ」というグラデーションの留保がつくんでしょうが。
またライトなBLになるほど受けが女男だったりと、「異性愛の安全なシミュレーション」としての側面が強くなっている。「やおい穴」なとがその典型でしょう。これは作家にとってはファンタジーという側面もあるのでしょうが、消費する側にとっては無知ゆえに変に思わないという可能性が否定できない。まぁ間違っているから良くないとは思わなくて、これを叩き台に正しい知識に誘導できればいいと思うのですが。無菌状態がいちばん良くない。

一方、そんなやおいを消費する腐女子のコミュニティに対してはこんなことが言われている。

社会学者の東園子は、腐女子が形成するコミュニティを女性版のホモソーシャルと解釈できるとしている。ホモソーシャルとは文学研究者・社会学者のイヴ・セジウィックが提唱した概念で、男性同士で友情をはじめとする社会的なつながりが形成されてその間で女性は貨幣のように交換されるという構造を持ち、ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)という2つの特徴がある。腐女子のコミュニティでは、通常のホモソーシャルの枠組みにおいて女性が貨幣として交換されていたかわりに、物語の中の男性が欲望の対象として女性同士の間で交換される。(通常の男性の)ホモソーシャルにおける女性嫌悪についても、これを異性嫌悪と読み替えれば、(物語の中ではなく現実の)男性に対する嫌悪として腐女子のコミュニティに間に存在している(やおい系の同人雑即売会で男性の入場が禁止される例など、現実の男性を排除する傾向がある)。

Wikipedia「腐女子」
ホモソーシャルな男社会では、女や萌えキャラの話題はコミュニケーション円滑化のために貨幣として交換される。腐女子もこれと同様に、やおい話として男を貨幣化しているという指摘です。女子会など、腐女子にかぎらず同性でつるむ流れは強まっており、若者が恋愛から退却しているという話はよく言われています。

同性でつるむといえば百合(レズビアン)もありますが、百合は女性だけでなく男性の消費も多いジャンルです。


男の娘と草食化
さて『放浪息子』ですが、これはジャンルとしては男の娘ものであり、やおいや百合の同性愛ではなくトランスジェンダーです。トランスジェンダーは漫画のネタとしては珍しいものではないですが、ここにきて「男の娘」という名前でフィーチャーされるようになったのは何故なのか。

僕はこのベースにいわゆる男子の「草食化」があると考えます。宮台真司によれば、90年代の援助交際ブーム以降女子が「肉食化」し、男子はリスクを恐れて性愛コミュニケーションから撤退する草食化が起こった。これがジェンダーかく乱の第1段階。そして彼らの中には内面だけでなく、外見も線の細い女の子のような少年たちがいた。ここから「こんなに可愛い子が女の子のわけがない」と飛躍するまであと1歩でしょう。これが第2段階。特に妄想のなかではこの飛躍は容易であり、男の娘としてジャンル化されるようになった。したがって『らんま1/2』や『ストップ!! ひばりくん!』よりも、現在の男の娘作品は社会的背景が色濃いように思います。

ところでアニメ『放浪息子』の話の中心は恋愛や人間関係であり、トランスジェンダーとしてのアイデンティティではありません。したがって僕はこの物語をやおい・少女漫画的な関係性の文学であり、『エヴァンゲリオン』的な自分さがしの物語ではないと捉えました。少女が肉食化し、少年が草食化するなかで、「少女」的な要素が男性に見られるようになった現実を少女漫画が追認したのだと思います。

少女漫画はオタク系と違い、「セカイ系」や「決断主義」のような明確なアティテュードがありません。セカイ系や決断主義は、読者がそれを規範として内面化することができますが、『放浪息子』の二鳥くんの態度を抽出してロールモデル化するのはたぶん難しいでしょう。よく言われるように、少女漫画は「これってあるある」的なシーンの寄せ集めであり、現実社会で起こりつつある予兆を敏感に感じ取り、それを劇画化して気分を一般化するのがもっぱらの役目です(まどマギの杏さや二次などは典型的)。


「普通」をめぐる駆け引きと運動
さて核心に迫ります。倒錯好きは異常なのか。
年末年始にかけて話題になった都条例(いわゆる非実在青少年)問題に顕著なように、漫画やアニメに描かれる性行為を不健全であると感じ、規制しようと考える人々が一定数おり、当然やおいなど性倒錯ものもこの対象となります(ちなみに18歳以下という制限も取っ払われた)。要約すると子供に悪影響を与えるというのがその主旨です。

僕は「影響を与える」という点には同意します。『ワールズエンド・ガーディアンズ』の郊外論で述べたように、若者たちのメンタリティは郊外のポップカルチャーに色濃く影響されており、それを規範として生きているのはありありとしています。
しかし、漫画、ゲームやアニメだけを規制するのは反対です。なぜなら若者に影響を与えるのは、彼らの身の回りにあるすべてのものだからです。たとえば無菌化した郊外の環境のせいで応用力のない子供が育ち、学校で「夢を持ってがんばれ」と教えられた結果進路選択を誤り、親のいいつけを守った結果就職が困難になっている現状で、なぜ漫画やアニメだけが「悪」とされ、親や学校や教師が規制されないのか?意味がわからない。

これについては、都知事である石原慎太郎の経歴がもっとも雄弁に答えを語っていると思います。難ですが若くして有名になった石原ほど、言動のトレーサビリティの高い人間もあまりいません。
「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう」と同性愛者を蔑視し、「幼い子の強姦があり得べきストーリーとして描かれているものは何の役にも立たないし、百害あって一利もないと思う」と断ずる石原ですが、著作に見られるように彼自身もかつて強姦をテーマとして扱い、また買春経験なども披露しています。「いかなる書物も子供を犯罪や非行に教唆することはない」と記したこともありました。

しかし彼は、この記述をこの度の騒動で撤回し「そのころ私は間違っていた」と発言するに到ります。正直、この流れはある程度理解できます。理由としては

1.若い頃は世界が狭く、年上に対して反発心や自由への渇望があった。
2.親や監督する立場となり、状況の酷さを理解した。
3.時代が変わり、世の中の規範が変化した。

といったところでしょう。こう考えると彼に限らず世の中の大人が自分の若い頃を顧みず、子供の行動を規制したがる構図が納得できます。
特に3についてですが、基本的に世の中の規範というのは、リベラルな世の中ではだんだんと緩くなっていくものだと思います。規範(ルール・マナー)があれば、必ず誰か楽をするために破るヤツが現れて、それがなし崩し的に普通になっていく。したがって、年長者にとっては年下は常にだらしなく感じられるわけです。

べつに僕も性倒錯にハマってるわけじゃないので、やおいを嬉々として消費し、性愛から退却して同性で固まり、草食化して男の娘になってる現状を「望ましい」とは思っていません。でもネイティブにとっては、それが「普通」であり幸せなのです。かくして「普通/異常」という視点に関して石原―僕―腐女子、あるいは石原―僕―トランスジェンダーというグラデーションが出来上がるわけです。

二鳥くんのように今はまだぼんやりとした好みでしかなくても、それはやがて分かち難く実存と結びつき、自分の人生に影を落として選択を迫ってくる。そうして他の可能性を捨て、負のレッテルも込みで選択を受け入れたときに、僕たちはファッションを卒業して真性の“それ”になるのでしょう。
“それ”になったからには、「私変態なんで…」とか自虐せずに、年長者の規範から自分の「普通」を勝ち取らなくてはならない。そしてそれと同時に、そんな自分が幸せでいられる、時代に合った新しい生き方も探していかなきゃいけない。そう思います。
  1. 2011/04/02(土) 02:10:00|
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『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(上)

ひさしぶりの更新になります。
さて、僕がこれまで考えてきた問題(物語論・キャラ論)については『ワールズエンド・ガーディアンズ』でひととおり片がついたので(本買ってください!http://tinyurl.com/6a5ns35)、これからは新しいことについて考えたいと思います。
新しいテーマは「女性性」「クリエイタードグマ」です。この2つは非論理的という意味でなかなか今までの論法では手を出せない分野でしたが(批評を嫌っている分野でもあります)、これまで考えてきたキャラ消費などを手がかりに掘り下げていきたいと思っています。

一発目の題材はアニメ『放浪息子』です。

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(2011/04/27)
畠山航輔、瀬戸麻沙美 他

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志村貴子の漫画が原作のこの作品は、「性倒錯」をテーマにした群像劇です。主人公の二鳥は“女の子になりたい男の子”であり、彼の恋人である“男の子になりたい女の子”の高槻さんや、彼らを取り巻くクラスメイトたちとの淡い関係性のドラマが思春期の1ページ的に描かれています。志村は『青い花』など百合、ボーイズラブを扱う少女漫画の文脈の作家だと思いますが、それの「男の娘」版がこの『放浪息子』だと言えるでしょう。

出来のいい本作品ですが、その割に「入らないな」というのが正直な感想です。というのも自分が思春期時代、性倒錯的な感情を一切持ったことがないのが理由だと思います(作中のポジションで言うと、僕は千葉さんみたいなヤツでした。さおりん萌え!)。ようするに、僕は志村の描く魅力を直感的に分からない人間なのですが、いい機会なので性倒錯について踏み込んで考えてみたいと思います。草食系男子とか非実在青少年条例とか、流行りのトピックにも繋がるでしょうし。


性倒錯は病ではない?

「女っぽい男」はその人の性格であり、「男を好きな男」は同性愛であり、「女の格好をした男」は女装であり、それぞれは全て別々で異なる概念である。

Wikipedia「性同一性障害」より http://tinyurl.com/5u4r7h2
性倒錯は差別に晒されてきた概念であり、言及には非常に神経質なジャンルです。そのため差別的なニュアンスを避けるために語彙が乱立し、それが余計に部外者による言及を敷居の高いものにしています。
大まかには性倒錯を染色体異常などの疾患(性同一性障害)とみなす見方と、たまたま自分の身体とは異なる心の性別を持っている現象(トランスジェンダー)とみなす見方があり、当然ですが当事者はトランスジェンダーの立場を好みます。
彼らの言説はNHKの福祉番組『ハートをつなごう』などに見ることができ(http://www.tokyowrestling.com/articles/2008/04/nhk_heart1.html)、それによれば彼らは「トランスジェンダーは普通であり、障害者ではなく、あくまで普通の人間として扱ってほしい」という立場を強調します。心情としてはよく分かるのですが、僕はその主張は「男女」のみならず、「普通」という概念に対する根本的な問いかけになっていることを意識せざるを得ません。

「普通」って何だ?
もはや言葉の限界とか認識論の世界だと思うのですが、そもそも「普通」とは何でしょうか。僕は感覚的に10人中過半数が選ぶ選択が「普通」なんだろうと感じていますが、こういう答えはおそらく日本的でしょうね。マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室』に見られるように、海外では人種も風俗も異なる民族が共存している状態こそが「普通」であり、その中で多数派を占める単一的な集団が"standard"ではあっても"normal"とは言わないと思います。そのため常にマイノリティとの関係性が問題の焦点になっている。
自由主義(リベラリズム)においては、こうした問題は「公正」の概念として整理されています。つまり「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という「立場入れ替え可能性の確保」の問いが根本にあり、その具体的な回答としてマイノリティへのアファーマティブ・アクションなどが実施されている。

ひるがえって日本では単一的な民族性のために、異なる習慣をもつ人々と共存している感覚がありません。そのため普通=standardが一種の「型」のようになり、その型を外れる人間は異常=abnormalとして共感不可能な彼岸に置かれてしまう実情があるように思います。

このような社会においてトランスジェンダーは二重苦だと言えるでしょう。なぜなら日本において「普通」とは漠然とある一般人(日本人)の型をはみ出さないことであり、それは突き詰めれば「自己主張をしない」ということだからです。在日特権を主張した瞬間にその人は普通ではなくなり、政治的な話をした瞬間に普通ではなくなり、果ては場の空気が読めなくなった瞬間に普通ではなくなるのです。よく言われることですが、日本社会では民族的な単一性が自明と見なされているために、コミュニケーションの共感可能性が「普通/異常」の分水嶺になっている感覚が強くあります。それは欧米においてトランスジェンダーが「健常者/病人」の審級にかけられており、「健常な普通の人」としての権利拡大(同性婚など)の運動を展開しているのとは隔世の感があると言わざるを得ないでしょう。日本において「普通」とは凡庸で個性を主張しないことであり、「トランスジェンダー」という個性を強調しながら「普通」を主張するのはナンセンスなのです。

『放浪息子』ではこのへんの機微がよく描かれています。男装趣味の更科さんは、変わり者ではありますがセクシャル的には健常であり、立ち回りも上手いのでそれほど周囲からは浮いていません。高槻さんはトランスジェンダー的なメンタルを抱えているものの、思春期少女の性倒錯はある程度ファッションとして認知されているからか、それほど問題視されません。それに対して二鳥くんの女装は大騒ぎになり、彼は学校でのそれを禁じられていじめに遭いました。今の世の中のぼんやりとした「普通」のしきい値が男の娘のあたりにあることを表しています。

中二病としての性倒錯
もう1つ気になるのは、その「ファッションとしての性倒錯」という側面です。
前提として、まずトランスジェンダーの中核である性同一性障害は身体由来であり、(それを異常と捉えるか/普通と捉えるかはともかく)個人の趣味や環境要因による後天的なものでないということは言われています。

原因ははっきり分かっていないが、胎児期に外部からのホルモンに曝されるなど、何らかの原因で体の性とは異なった方向に、脳の性分化が進んだという説(ホルモンシャワー説)が知られている。家庭での育て方の問題ではなく、いくら説得しても「男(女)らしくしろ」と叱っても、精神療法によっても、心の性は変えることが出来ないとされている。

性同一性障害を持つ者と持たない者との比較において脳内の特定部位の形状の差異が見られた例は、以前から複数報告されていた。例えば、人間の性行動に関わりの深い分界条床核は、男性のものは女性のものよりも有意に大きいが、6名のMtFの脳を死後に解剖した結果、分界条床核の大きさが女性とほぼ同じであった。

男性ホルモンに関わるアロマテーゼ遺伝子、アンドロゲン受容体遺伝子、エストロゲン遺伝子の繰り返し塩基配列の長さを調べた結果、MtFではこれが長い傾向を示した。これは、男性ホルモンの働きが弱い傾向であることを示している。

しかし僕が思うのは、世の中はグラデーションであり、そう二元論的に割り切れるものでもないだろうということです。
僕が述べるのはメタ批評的な話で医学的な実用性は薄いでしょうが(でもそれなりに有意味だと思うから言うのですが)、世の中の概念というのは必ずしも普遍のフォーマットを持つのではなく、常にある程度の揺らぎを持った集合的なものとして捉えられるわけです。したがってホルモン異常にしても染色体異常にしても、「普通/異常」「男/女」という二元論ではなく、厳密には常に程度問題がつきまとうはずなのです。そして境界線の/というのは便宜的なものにすぎません。たとえばトランスジェンダーでは性分化疾患との絡みで「第三の性(中性)」を自認する立場もあるし、分界条床核の性分化は後天的だという立場もあります。

これらは医学的診断を伴う性同一性障害については、ある程度しきい値としては機能しているでしょうが、しかし本人の自認に基づくトランスジェンダーでは益々グラデーション化を避けられないでしょう。「トランスジェンダー」という言葉は疾患としての「性同一性障害」という差別ラベリングを忌避するために当事者によって持ち出された言葉だそうですが、なかばマジックワード化しているために『放浪息子』で描かれるようなファッションとしての性倒錯を是認せざるを得ません(たとえば、性同一性障害においては統合失調症による妄想などに対する除外診断が行われますが、トランスジェンダーは自己申告のため顧みられません)。したがって凝り固まった男/女の観念を持つ道徳主義者には異常(病気)であり嫌悪の対象となるのです。

気になるのは、こうした性倒錯フォビアや、トランスジェンダーを声高に叫ぶ当事者ほど「性」や「普通」の概念の曖昧さに無自覚なように見えることです。たとえば僕なんか一応ノーマルな男性ですが、昔からクラスの「普通」の価値観には馴染めなかったし、リア充共死ねよと思って生きてきた(笑うとこです)。対照的にトランスジェンダーの中には外見からして僕よりよっぽどマッチョな人や、女の子より女らしい人もいる。正直、当初その振る舞いがとてもパターナリスティックでロールプレイ的に見えたのは否定しません。

ようするに中二病じゃないかと思ったんですが、『ワールズエンド・ガーディアンズ』で言及したように中二病は「普通」が前景化したフラットな郊外での異化作用という側面が拭いがたくあります。均質的な郊外においては学校の成績や住宅の価格など、小さな差異を見つけては延々差異化ゲームが繰り返される。このような「普通」の抑圧に対する反動が中二病であり、「オレは普通の人間とは違う」「選ばれた特別な存在である」といった屈折した自意識を形成するわけです。この延長線上で性倒錯を考えたわけですが、あくまで「グラデーションである」と前置きした上で言えば、ファッション的なトランスジェンダーの中にはこうした傾向が強いのではないかと予想します。世の中の多様さを知らないがゆえに、自分の設定した「普通」「男」「女」にこだわって自縄自縛になってしまっているタイプ。

人の性別はどこに存在するか。たとえ性分化疾患の当事者でも、男性もしくは女性としての、どちらかの確かなアイデンティティーがあり、本人の自己意識も確かめずに周りの他者がその人間の性別を恣意に決定することはできない。現に、性分化疾患を患って出生した乳児が、その場の医師によって恣意的に性別を決められて手術を施され、“たまたま”反対の性別にされた当事者が乳児期以後、アイデンティティーとの不一致によって苦悩するという多くの実例があった。これは性同一性障害にも共通する苦しみでもある。例えばこの性分化疾患の当事者に対し、他者が「医師が“何となく”であなたをその性別と決めて性器の見た目もそれらしく作ったのだから、その性別で生きろ」などと言えようはずもない。以上の事例や経緯によって、「身体の性」と「心の性」はそれぞれ別個であり、ひとえに「身体」が人の性別を決定づける根拠とはならないことが明らかとなった。

性同一性障害を抱える者は、もし生来から自身の性同一性と同じ性別の身体で生まれてさえいれば、何ら違和感を持つこともなく普通にその性としての人生を過ごしてきたはずであり、人格やアイデンティティーが“途中で変わった”わけではない。当事者は「(心身ともに)異性になりたい」のではなく、「本当は女性(男性)なのになぜ身体が男性(女性)か」という極めて率直な感覚を胸中に持っていることも多く、当事者自身にとっての「本当の性別」とは、まさしく自分を自分たらしめるアイデンティティーにしたがった性別である。

異性装をする者は、純粋にそれを楽しむためや、あくまで趣味と捉えていることが多い。性同一性障害を抱える者は、家族との関係や仕事の雇用、外科的手術、戸籍上の名や性別の変更など、一つの人生そのものに深く関わる問題で、とても趣味や楽しみと呼べるものではない。

社会や文化における男女の扱いの差を無くしたとするならば、性同一性障害者の苦悩も無くなり「治る」のかといえば、それは決してない。もし仮に撤廃が実現したところで、現実的、物理的に自身の身体は確然と存在し、身体的性別に対する違和感、嫌悪感を取り払うことにはならない。またなにより、それらの苦悩は単なる好き嫌いや損得ではなく、その人自身の持つアイデンティティー(同一性)が基底にある。性同一性障害の抱える問題と性差の撤廃とは、根本的な相違がある。

なお、性同一性障害に対し、「心のほうを身体の性に一致させる」という治療は、以下の経験的、現実的、倫理的な理由によりおこなわれない。

●性同一性障害の典型例では、過去の治療において成功した例がなく、ジェンダー・アイデンティティの変更は極めて困難だと判明している。性同一性障害は生物学的な要因が推測され、そのような治療は不可能と考えられている。
●性同一性障害者自身はジェンダー・アイデンティティの変更を望まないことが多いので、治療の継続が困難である。
●ジェンダー・アイデンティティは人格の基礎の多くを占めており、人に対する人格の否定につながる。

また、性同一性障害の原因は身体とは反対の性への脳の性分化が推測されているが、例えば「脳を身体の性別に一致させる」などという脳に対する外科手術は現在の医療水準では不可能であり、またたとえ仮に可能であったとしても倫理的に大きな問題がある。

↑長いので読み飛ばしてもらって結構ですが、ようするに、Wikipediaの性自認、性同一性に関する記述はひどくナイーブで文学的です。これはつまり、医療の分野では人間の心はアンタッチャブルだど言っているように見える。
個人的には、この考え方には違和感があります。男/女の区分なんていう生物学的なものを内面化して再強化してるのは良くないし、極端な話男女の性別を逆の意味で教育されたら直しようがありません。「アイデンティティ」という言葉が連発されていますが、キャラ消費の時代においてアイデンティティという概念がいまだに有効なのかも疑問です。

キャラ化する男/女
あまり僕はトランスジェンダーを先天的な素養とする立場をとりません。というより、その程度の差異であればいくらでも環境要因で改変されうると考えているからです。たとえば、最近男子の草食化が言われていますが、それは女性が強くなった社会への適応ではあれ、染色体異常やホルモン異常ではないでしょう。同様に二鳥くんのトランスジェンダーも環境要因的な側面が強く描かれていると思います。彼のような可愛いタイプの男子は女子に人気があり、可愛がられるなかで女性的な感性になっていくというのは個人的な経験からもある流れだと思っているからです。また日本には古来から「衆道」という文化があり、同性愛はある程度「普通」のこととして受け取られていた。奇異の視線で見られはするものの、いまだにその流れは変わっていないように思います。

●より社会へ適応するため、あるいは違和感や嫌悪感から逃れるために性自認を抑え込み、身体的性別に応じた過剰な男性性または女性性の行動様式を取ろうとする場合もある。
●自身が反対の性の容貌や外性器を持っているという確然たる事実や、当然のように身体的性別で扱われる環境にあって、姿形の見えない性自認はそれだけでは不安定であるため、性自認に基づく男性性または女性性の行動様式を過剰に取ろうとする場合もある。

先のロールプレイの話に戻ると、性を二元論的に捉えたときにキャラ過剰に演じてしまうのは仕方ないのかな、という気はします。それはトランスジェンダーに限らなくとも、三島由紀夫が中年マッチョになったのもそうだし、女の子がキャラ過剰に女性性や少女趣味に目覚めるのもそうなのでしょう(逆にそれを「女装」と自嘲する女性もいる)。ただしそれはカギ括弧で括られた「男性」「女性」像であり、とても郊外的な匂いを感じます。トランスジェンダーが先天性のものであるなら、なおさら便宜的な社会規範にすぎない「男性/女性」を内面化しないほうがよいのではないか。

性自認が先天的にしろ、環境要因にしろ、あるいは偶然にしろ、トランスジェンダーがトランスジェンダーであることによって感じる違和感と、トランスジェンダーが中二病であることによって感じる思春期の違和感はある程度分けて考えるべきじゃないかと感じます。そして中二病(思春期的心性)に対しては、学校を中心とする狭量な価値観の外にも世界が広がっていることを見せてあげれば、成長していくなかでどこかにランディングするでしょう。

おそらくトランスジェンダーもグラデーションなので、躍起になって異性装してる人ばかりじゃないのだろうなという気はしています。そしてそのほうが生きやすいのだろうなとは思う。日本はコミュニケーション至上社会ですが、逆に言えばコミュ強者である限りは「普通」なのです。ガチではなくネタとして消費可能なら異性装は武器にすらなるでしょう(それはにとりんのモテぶりが証明済み)。

長くなったので一旦切ります。後半は消費される側面の性倒錯、やおい好きや非実在青少年との絡みで論じる予定です。


続き↓
『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(下)
  1. 2011/03/28(月) 22:00:00|
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コミックマーケット79告知&新刊『ワールズエンド・ガーディアンズ』

冬コミに出展します。

コミックマーケット79
会場:東京国際展示場(東京ビッグサイト)
日時:12月31日(金)10:00~16:00
サークル名:FEF
ブース:東Q-04a
http://twitcomike.jp/?id=0079-3-QQa-04-a


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新刊『ワールズエンド・ガーディアンズ』
魔法少女論×郊外論×漫画論

A5中綴じ、146ページ。
価格:500円

↓以下目次

魔法少女論

☆概論 ゼロ年代~テン年代

2つの受容 キャラクター/キャラ 『セーラームーン』→『おジャ魔女』→『プリキュア』 多彩な魔法少女たち 学園異能・戯言系 東方Project メタ魔法少女

☆『東方香霖堂』
 「作家」ZUNが恋した幻想郷と村上春樹的想像力


☆『うみねこのなく頃に Episode4』
 必要なのは推理でなく批評


 【ゲスト論考1】hmuraoka
☆10年代の決闘者(デュエリスト)
 トレーディングカードゲーム試論


郊外論

☆概論 00年代~10年代

郊外をめぐる現状 ケータイ的郊外 ケータイ小説の世界観 カワイイ想像力 ネットカルチャーと10年代 【まとめ】魔法少女の否定神学

☆Not 魔法少女 but VOCALOID
 ―ボカロPVが描く郊外の魔法―


 【ゲスト論考2】kei_ex
☆郊外・ニュータウン・ディストピア
 ――郊外の表象史を通して

1.「郊外」と「郊外化」――今語られている「郊外」とは何か
2.郊外がかかえる問題とは何か ――均質性と入替可能性の憂鬱
3.均質的な郊外への抵抗 ――『忘れられた帝国』と『電脳コイル』
4.とある郊外の均質都市(ニュータウン) ――『とある科学の超電磁砲』
5.偶有性と私的体験のあいだで

漫画論

情念定型、前史 風景主導 線の模索 ハイブリッドとしての魔法少女 コマ割りと余白 黒と白 見開き 枠線
「漫画」という定義の曖昧さを超えて


今回評論本を出すことになりました。今までの集大成というかんじで、かつ描いてる漫画の設定本ということにもなります。
「魔法少女論・郊外論・漫画論」という3つの章に分かれていて、それぞれの側面から2010年の“イマ”に迫っていきます。読んでもらえばこれらの問題意識が根っこで1つにつながっていると同時に、もっともエッジィなテーマだということも感じてもらえると思います。

また、この本にはゲストも参加してくれました。
Twitterで仲良くしているhmuraokaさん(http://twitter.com/#!/hmuraoka)と、ブログから付き合いの長いkei_exさん(http://teitodiary.blog63.fc2.com/)です。hmuraokaさんには、僕が弱いゲームの分野の中から「トレーディングカードゲーム(TCG)」について語ってもらいました。kei_exさんには、郊外を舞台とする作品の表象文化史――その延長線上で『電脳コイル』『とある科学の超電磁砲』なんかについて語ってもらっています。両方ともかなりの力作です。

そのほかにも、裏表紙イラストもTwitterで知り合ったBEMUさん(http://flavors.me/friendlyfire#_)に描いていただきました。オレの萌えだか何だかよく分からない絵とは対照的なクールなビジュアルの作品で、本のケツをキュっと締めていただきました。ちなみにそのイラストはこちら↓

当日はウチのスペースでBEMUさんの本も委託販売します。
また、mosskoさん(http://twitter.com/#!/mossko)の本とかTシャツとかも委託販売する予定です。なんだかえらくにぎやかですな。
ちなみに時間帯はともかくhmuraokaさん、kei_exさん、BEMUさん、mosskoさん全員来ます。
では冬コミ会場でお会いしましょう!^o^/

魔法少女こそが、現代日本をもっとも的確に捉えるクリティカルタームであり、テン年代の“終わった世界”に射す希望の光なのである。

あ、あと既刊の『Graduate』も小部数あります。紹介は↓
http://fefrontier.web.fc2.com/evnt_100504.html
  1. 2010/12/28(火) 23:00:00|
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『けいおん!!』 卒業は終わりじゃない

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『けいおん!!』の本編が最終回を迎えました。
通して観て、僕が思ってたよりずっと良い作品だった。

理由はひとことで「キャラクターがしっかり描けてる」ということに尽きますが、観てないときはもっとキャラ萌え押しで中身のない作品かと思ってた。でも観てみるとそんなことはなくて、日常レベルでの等身大の女の子の成長がちゃんと描かれていて、好感を持てました。

もちろん絵がすばらしいのは言うまでもなくて、主役の5人をはじめ出てくる女の子はみんなとても可愛らしく、ゼロ年代からの萌え絵、そして京都アニメーション作品としての1つの到達点ではないかなと感じます。

ところで、最近の僕のサブテキストは宮台真司の『愛の授業』なのですが(笑)、宮台氏に言わせれば「萌えはフェティシズムのインフレーション」なのだそうです。インフレーションというのは欲望が現実離れして先鋭化している様子の謂いなのですが、『けいおん!!』でも当初から言われているように男性不在の女子高空間や、「唯派」「澪派」といった男性ファンのパターナリスティック俺の嫁願望の先鋭化(ぶっちゃけみんな可愛いから選べない!)などにそういったものを感じられなくはない。萌え絵自体フェティシズムの追求だからそれは避けられないのですが。宮台氏はこうしたフェティシズムが現実を遠ざけると言うのですが…だがしかし!先に述べたように『けいおん!!』はやはりキャラ萌えだけに終わっていないと思うのです。


ハルヒとの対比 仲間、絆

これは同じ学園祭でのライブを描いた『涼宮ハルヒの憂鬱』の「ライブアライブ」との比較で言えます。『けいおん!』1期のときはよく「ハルヒ超えてない/超えた」みたいな話もありましたが、そうして引き合いに出されるくらいハルヒの「ライブアライブ」の回はよく出来てたし、オーラがあった。個人的には放課後ティータイム(HTT)は1期の時点ではハルヒの「God knows...」にパワー負けしてると思う。
では2期はどうか。ハルヒは「酸っぱい葡萄のリハビリ作品」なんて揶揄されたりもするように、基本的に涼宮ハルヒというカリスマ少女のオーラに周りが引っ張られてゆく、ややセカイ系を引きずった構造です。これが「ライブアライブ」にも出ていて、ハルヒが歌う「God Knows...」のパワーに圧倒されて、ライブが盛り上がっていく構造になっている…つまり良くも悪くもほぼハルヒの一人舞台(長門たちも手伝ったにせよ)。

しかし2期『けいおん!!』の「またまた学園祭!」では、この作品の集大成である3年のライブはみんなの努力のもとに達成されるのです。頼りない主人公の唯やHTTのメンバーだけでなく、妹の憂や顧問のさわちゃん、和や他のクラスメイト、梓の友達の後輩たち…。みんなに支えられてライブは大成功をおさめます。それはたぶん、5人だけでは辿り着けなかった高みです。「U&I」には「God knows...」のような凄みはないし、上手いわけではない(らしい)けど、包み込むような暖かみがあった。それは決して馴れ合いだけではなく、「包摂」の力なのだと思います。
これをもって、HTTはハルヒを超えたと言えるんではないでしょうか?


こんな時代だから

「世の中そんなに甘くない」「人生舐めるな」…けいおん!へのこういう批判は一面で真実だと思います。それは僕らの、いまの世の中への厳しい社会認識が表れているとも言える。みんな、のんびり屋でぼやっとしている唯のことを自分と重ねて心配しているんでしょう。あるいは妬んでいるのかもしれない。

でも、正直自分の高校時代もこんなもんだったし負けず劣らず世間知らずだったんじゃないかなーと僕は思う。それに彼女たちは間違いなく、高校生活でかけがえのない何かを得たと感じました。宮台氏は先の『愛の授業』で、厳しい社会だからこそ絆の必要性を強調しています。

 人は「おひとりさま」で生きる必要なんてない。「おひとりさま」で生きようとすれば、自分であれもこれも用意しなきゃダメだ。これからの社会、そんなのはすぐ失敗しちゃう。頼りになるのは「関係」だよ。



HTTが武道館に行けるかはわかりませんが、4人揃って大学に行くことだし、唯はけっこう大丈夫じゃないかなと思います。
最後に「Utauyo!!MIRACLE」の歌詞から。

どんな本も書いてない 授業じゃちょっと教わんない
けど一生 忘れない
この世にないと思ってた奇跡 一緒にね歌えば
信じられるんだ 強くなれるんだ



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