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岡田麿里脚本のノれなさについて ―アニメルカ、girl!、とらドラUST―

 先期・今期はすっかり岡田麿里無双でしたが、そんなアニメも最終回を迎え、ここらで岡田脚本作品の印象についてまとめてみたいと思います。

 とらドラUST
 とらドラ!ファンUST ―竜虎並び立つか?― A

 とらドラ!ファンUST ―竜虎並び立つか?― B

生ぬるい世界
 岡田脚本について先に僕が考えを語ったものとして、nakaiya1546さん、teramatさん、kei_exさんと一緒にやった「『とらドラ!』UST」がありますが、ここではおもに2つの主張を展開しました。

1.『とらドラ!』の世界は現実より生やさしい。
2.少女漫画的な関係性の物語に「成長」は無い。


 これは『とらドラ!』についての印象でしたが、概観しておおむね岡田脚本全般に当てはまる特徴だと感じます。1について、「生やさしい」というのは実感で言えば、現実の難易度が5くらいとすれば『とらドラ!』の世界は難易度3ぐらいで回っているという意味ですが、それは例えば、クラスがみんな仲良しでスクールカーストが無いことや、体育祭や学園祭がたいそう盛り上がっていることなどが指摘できます。こうした特徴は現実の隙間風が吹く教室ではなく、漫画やアニメの定番をなぞっているという意味で「まんが・アニメ的リアリズム」などと呼ばれるものです。

 『花咲くいろは』でも主人公の緒花は祖母の旅館で働くことになりますが、彼女は旅館(会社)の慣習には従わずに個性を発揮し続け、それが作中では賞賛されます。また物語もご都合展開や従業員の逸脱行動が目立ち、トラブルが頻発します。とても現実ではこんな旅館はありえないし、仕事に対する姿勢としても色々間違っているでしょう。
 『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』では、主人公じんたんのもとに幽霊となっためんまが現れたことをきっかけに、かつての幼馴染たちが「超平和バスターズ」を再結成する顛末が描かれますが、この物語自体がある種叶うはずの無い彼らの「願望」を描いたものであり、「生やさしい」世界観を自演的に構築したものでした。

   animerca_vol4.jpg

アニメは嘘と相性がいいっていうか、嘘がないとむしろリアリティがなくなるジャンルだと思うんですよね。なにしろ20分という短尺なので、全体構成の中だけでなく各話単体を考えても、確実に快感を覚えてもらえるポイントを配置しなくちゃいけない。

(『アニメルカvol.4』岡田麿里インタビュー)

 こうした「生ぬるさ」の遠因を僕は岡田のこの発言に見出します。「嘘」というのはおそらく現実離れしたドラマティックな展開のことであり、「リアリティ」というのはそれに伴う自意識的な没入――感動――のことでしょう。物語制作の現場では、よくこのような感情のダイナミズムをグラフに表して、振れ幅の大きいものが良いと言われたりしますが、この「感情のダイナミズムの表現が巧い」というのが岡田の一般的な評価であり、たとえば『とらドラ!』での亜美×実乃梨の雪山対決から大河の告白、最終回へと続く一連の流れなどがそうでしょう。山本寛はこのような脚本の特徴を「キャラクターの心情が『飛ぶ』」として高く評価しています。
 しかし、山本が岡田を買った『フラクタル』は不振に終わります。それは『フラクタル』の物語構造と岡田の脚本の特長がマッチしなかったことが一因だろうと僕は考えます。つまり、現実離れしたドラマティックな展開に感動させるには、視聴者のキャラクター達への没入(感情移入)が必要で、さもなければ生ぬるいという印象に傾き「チョロい話だ」という評価になりがちです。したがって、視聴者の没入を誘うテーマ設定が必要だったと思われるわけですが、『フラクタル』はそのような話になっていなかった。

110626A.png 110626B.png
「成長」の困難
 感情のダイナミズムで表せば、『とらドラ!』『花いろ』『あの花』といった作品には「成長」というわかりやすいテーマがあり、始点、終点、傾きが概ね決まっていました。それは脚本如何ではなく企画の段階の問題です。脚本家とは水先案内であり、岡田の才能というのはいわば「この2点間にいかに美しいグラフを描くか」というグラフ屋の問題に収斂していたと言えるでしょう。
 だが『フラクタル』はそう単純ではなかった。この作品は山本の「もうアニメは駄目かも知れない」という危機感に端を発しており、物語が無い(日常系、キャラ消費)、あるいはあまりにも容易く物語が成立してしまう(まんが・アニメ的リアリズム)状況へのカウンターとして企図されています。つまり「売らんかな」ではない野心的な作品だったわけですが、そのため東浩紀が原案として提示した世界観は「成長とは、少女をレイプすることである」というような「やさしくない」ものとして描かれ、主人公のクレインですらそれに没入できず煩悶とする様子が描かれる。いわば始点はあっても終点がなかなか定まらず(というか分かりやすい終点をこそ否定して)、岡田がいかに感情のダイナミズムを描こうともそれが迷走して、カタルシスを得られにくい構造になっているわけです。僕はこの『フラクタル』の物語の不可能性への挑戦は先進的でよいテーマだと思っていますが、岡田の持ち味の爆発力とは合わず、キャラ消費という時代の流れを(狙ったけど)掴みそこねたのだと感じています。

 「成長」というのは現代では難しい問題です。社会全体が緩やかに衰退に向かっている日本では、少年漫画的な成長物語自体がある種流動性を免れた、箱庭的な状況でしか成立しえないものになっています。それは必然、外への疎外を暗黙のうちに孕んでいます(「日常」が送れるのはホワイトカラー核家族だけである)。
 こうした中でよりシビアになるのは成長以前にそれを可能にする人間関係の問題であり、これをテーマにしたのが『放浪息子』です。よく言われるように、『放浪息子』の性倒錯というのはそれをアイデンティティとして形成してしまったガチなものではなく、まだ異性装にあこがれる程度のファッション的なものです。思春期の自我の発達に伴う自分の輪郭の不確定さが精神の放浪として描かれますが、それは学校という箱庭においてのみ可能なぼんやりとした悩みであり、作中で登場するトランスジェンダーのカップルのような社会的な傷を引き受けた者とは隔てられています。

 ここにおいて立ち上がってくるのが2の問題で、つまりこういった少女漫画的な(山なしオチなし意味なしの)関係性の物語において成長は可能なのか、可能だとすればどういう形をとりうるのかという問題です。

ヤマカンのやらおん!化
 『花咲くいろは』にはサブキャラクターとして山本寛に似た人物が登場します。彼には小説家として大成するという大望があり、破天荒な言動をとるわけですが、緒花はそんな変わり者の彼にも分け隔てなく接します。彼女は対照的に日々の生活のことで頭がいっぱいなキャラクターですが、それでも地に足のついていない彼をそれなりに受け入れる。つまりこれは、岡田からフラクタルで失敗した山本への「そのままのあなたでいいのよ」という包摂のメッセージにも読めるわけです。
 宮台真司などが指摘するように、一般に男はイデアリスティックに理想を追い求める傾向があり、女は今ここを楽しむ傾向がある。山本にはアニメ業界を変えるという個人的な理想があり、なりふり構っていられないわけですが、それが滑稽でやらおん!などに晒されてしまっているわけです。つまり成長を志す者が嘲笑を受けてしまっている。しかし嘲笑の中にもそんな滑稽さに愛らしさを感じている者は少なからずいるはずで、それは日常やお笑いを楽しむ女性的な感性に通じているように思います。岡田の仕事に対する女性的な考え方が『花咲くいろは』には出ているように感じます。

   girl!_1.jpg

腐ィルター的ドグマ
 女性的といえば、腐女子を批評した同人誌『girl!』に「腐ィルター」という象徴的なトピックがあって、受け攻めの好みによる個人的な価値判断によって二次創作の絵柄や性格、関係性までもが細分化するという事例です。これがもし男の子的価値観だったら一次創作に照らし合わせて最も妥当なものが議論されるだろうし、事例は戦国ものだったので史実から正統性が検証されたりするでしょうが、女性の場合検索避けなど個別化の方向に向かいます。つまり客観性や正統性へは注意が向かわず、もっぱら好みや多様性が尊重される傾向があるのです。
 こうした傾向は「文化系トークラジオLife」で鏡リュウジが指摘したマイスピという占いサイトなどにも見られます。つまり「占いは信じるが、どの占いを信じるかは数ある選択肢の中から私が決める」という男性から見ると理解に苦しむ(どうせ自分で決めるなら他人に占ってもらう意味ないじゃん)事態が展開しているわけです。僕はこうした女性性の特徴を社会的コンテクストの否認と個別の価値判断による細分化として見出します。鈴木謙介的に言えば生理的に受け付けるかどうかという問題。そして少女漫画には友達の彼氏や父親、先生から果ては同性愛まで多様な恋愛が描かれています。

みのりん問題
 こうした女性的な感性を踏まえたうえで顧みられるべきなのが、『とらドラ!』の、とりわけ櫛枝実乃梨の振る舞いです。僕の回りでは通称「みのりん問題」と呼ばれています。
 作中での実乃梨の振る舞いは「つじつまの合わないもの」として総括できます。竜児の好意を意識しながらもはぐらかし続けてきた彼女は、終盤に亜美にその事実を指摘されると今度は自分を棚にあげて大河に自分の気持ちをはっきりさせるように迫ります。それは自分に気兼ねして竜児のことが好きと言えない大河に、そんなままではいけないという親友としての思いやりの末の行動でしたが、まぁお前は素直になったのかという話です。この実乃梨の言動に客観的な理屈を付けることは不可能でしょう。結局、彼女は大河のことをそれだけ大事にしていたということなのでしょうが、竜児からしてみれば櫛枝実乃梨攻略というのは、自分とは関係ないファクターでハナから無理ゲーだったわけです(少年漫画的な成長の否定)。

 村上裕一は『アニメルカvol.4』所収の「ノスタルジーの文法」において、大河―実乃梨―亜美の関係を少女から女へのグラデーションで整理しています。それによれば、大河は少女でありイノセンスな感情を司っている一方、亜美は女として振る舞っている。彼女は恋愛関係のもたらす偶有性のアイロニーを理解しており、他者を蹴落とす罪を引き受けて生きている。しかし実乃梨は両者の中間的な存在であり、女に目覚めながらも少女の側に留まろうとしてみんな仲良しの仮面を演じていた。亜美にはそれが苛立たしかったわけです。

 最終的にこの物語を実乃梨の視点から見ると、それはおそらく失恋と、かけがえのない箱庭の喪失になります。言い換えればそれは自分の限界を知り、わきまえるということでもある。そしてこれこそが女性的な価値観における「成長」ではないかと僕は思うのです。言うなれば『とらドラ!』では「分かり合えた」という成長と「分かり合えなかった」という成長が同居しています。『放浪息子』では二鳥が「わきまえる」というのがアニメの結論でした。
 個人的には、わきまえて個別性に落ち着いたその後――『放浪息子』の千葉や、『花咲くいろは』の緒花の母や『あの花』のめんまの母が絶対的他者として立ちはだかった場合のオニババ的女性性について興味があります。それは島宇宙化した世界でどう振る舞うのか、という現実の問題に直結しているからです。

ノれる話
 岡田脚本ではありませんが、そういう意味で『魔法少女まどか☆マギカ』はやっぱり良かった。あれは少女趣味的な女の子の世界を現実に(伊藤剛的に言えばキャラをキャラクターに)ぶつけているからです。

 表題にした「岡田麿里脚本のノれなさ」とはそういうことです。つまり岡田個人の資質というよりは構造的な問題。人によるでしょうが、僕にとって学校的箱庭というのは遠い日の花火なので、もうあまり感情移入もできません。僕はやっぱり自分の身に迫る内容の作品が好きです。『花咲くいろは』は好きなところもあるんですが、もうちょっとハードに作ってほしかったかな。
 震災以降、物語の表現が変わらざるを得ないみたいな話がありますが、それは箱庭的日常系作品については圧力がかかっているので当たり前です。これほど物語に社会性の要請が高まっているのは近年なかったと思う。ただそれは、物語にどうリアリティを取り込むかという『東のエデン』的なラインにはあまり影響はなかった気がします。日本の衰退は規定路線だからです。『電波女と青春男』は、そうした傷を負った人々の日常を上手く描いていて今期ではいちばん好きでした。日常系作品にはキャラ消費をどうこの現実にぶつけるかということを期待したいです。
  1. 2011/06/26(日) 12:35:00|
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第十二回文学フリマに出展します。

第十二回文学フリマ
会場:大田区産業プラザPiO
日時:6月12日(日)11:00~17:00
サークル名:FEF
ブース:小展示ホール エ―34


 今回うちのサークルは新刊はありません。
 既刊の『ワールズエンド・ガーディアンズ』を販売します。

 文フリ
 →内容紹介はこちら


 Amazonでは表紙1パターンのみ、1000円で販売していますが、
文フリではコミケと同様に表紙3パターン、価格500円で販売します。30部ほど持っていく予定です。まあ既刊なのでのんびりやろうと思います。^^

 例によってブースには共同執筆者のhmuraokaさん、kei_exさん、冬コミ製本監督(笑)のmosskoさんも顔を出す予定です。keiさんのほうからもしかしたら突発本の企画が出るかもしれないそうなのでお楽しみに。


 あと、『アニメルカ vol.4』にモノクロ挿絵1点描かせていただきました。イラストで仕事(?)もらったのはじめてだよわーい!当日読むのが楽しみです。
  1. 2011/06/10(金) 20:20:00|
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コンテクストの現地調達 ―建築、pixivランキング―

 自分の手に持っている職で金を儲けるには種も仕掛けもない。自分の持つ正義への忠誠心に忠実に生き、こつこつとモノを創造し、社会に問い、そしてその問いかけに対しての評価が下る。良い時も悪い時も、自分の正義に忠実であってそれが社会から信用を勝ち得た瞬間しか儲けを手に入れることはできません。


芸術闘争論芸術闘争論
(2010/11)
村上 隆

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 村上隆の芸術闘争論、ニコ生でも観たんだけど本も読んで復習。
 村上は芸術の4要素として構図、圧力、コンテクスト、個性を挙げていますが、このうちコンテクスト(文脈)について言及します。芸術では、デュシャン以降の現代アートの文脈、作家の出身のローカリティの文脈などを串刺しにして(受け継いで)作品を作ることが求められる、そういう「ゲーム」であると彼は述べていますが、これを聞いて隣接分野の「ゲーム」はどうだろうと考えました。

GA ARCHITECT 妹島和世+西沢立衛 2006-2011GA ARCHITECT 妹島和世+西沢立衛 2006-2011
(2011/01/26)
Yukio Futagawa

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 建築分野で最近国際的に活躍しているプレイヤーといえばSANAA(妹島和世+西沢立衛)ですが、彼らは村上と違ってすごく抽象的です。ロジカルな物言いをせずに感覚的な言動を好み、作る建築もミニマリズムに特化した、ちょっと浮世離れしたものを作る。正直、あんま社会とかコンテクストとか考えてないだろうと言いたくなる(異論はあるでしょう)。しかし彼らはコンペで勝っているわけです。
 では建築での「ゲーム」は現代アートと違っているのかといえば、予想ですがそんなに差はないと思います。コルビジェ、ミース以降のモダニズムのコンテクストを踏みながら、それをどう脱臼するかみたいな「ゲーム」のように見える。しかしSANAAのプレゼンは取り立ててそれを強調することはないし、むしろ「気持ちいい」とか「落ち着く」とかそうした身体感覚をマジックワードとして繰り出してくるイメージがある。

 本のなかで村上は日本の美大教育における「自由にやりなさい」というスキームを批判していて、そうした履き違えた「自由」教育でコンテクストを省みない美大生が量産され、アーティストとして世界に通用しなくなっているのだと攻撃していますが、自分の経験からいえば建築学生も事情は似たようなもので、地域のコンテクストとかまともに省みない独りよがりな設計をしている学生が多いわけです。というか、SANAAこそがそうした美大的「自由」スキームそのものに一見見える。
 しかしおそらく彼らは「結果的に」コンテクストを踏まえていると言えるでしょう。それは何かといえば、妹島が所員として勤めた伊東豊雄のセンスであり、更に遡れば伊東に影響を与えた篠原一男の文脈です。伊東や篠原から前衛的、日本的ミニマル、有機的といった文脈が調達でき、SANAAはそれを発展させるかたちで引き継いでいます。このコンテクストの串刺しがグローバルな建築の「ゲーム」において評価されているのではないか、というのが村上の指摘を受けての僕の感想です。

 つまり建築においては、大学教育ではなく弟子筋によってコンテクストが継承されているという指摘ができます。よく言われるように伊東、妹島、石上純也、中山英之といった有名な建築家たちは直系の弟子筋であり、「白派」などと呼ばれるようにミニマルな作風も師匠から引き継いでいます。大学教育において「自由にやりなさい」と指導される状況は建築も同じですが、しかしその結果として、学生は自分の憧れる作風の建築家のアトリエに所員として就職し、師匠から独りよがりにとどまらないコンテクストを調達することが可能になっているわけです。また藤本壮介のように、直系の弟子ではなくても伊東と似たセンスで設計していたところコンペで伊東に見出されて有名になるというパターンもありえます(これは黒瀬陽平の言う「情念定型」に近い)。

 これらは村上のように戦略的ではないものの、結果的にコンテクストを「現地調達」したと言えるでしょう。むしろ計算ずくではないのでこちらのほうが自然な意味での「コンテクスト」に近い気がします。


 
 pixivデイリーランキング100

 同じようにコンテクストを「現地調達」した事例として、pixivのランキングが挙げられるでしょう。pixivに絵を投稿することは基本的に「自由に」やっているわけですが、しかしpixivランキングにはユーザーの評価を反映したコンテクスト(トレンド)があって、たとえば流行りのアニメのキャラを描くとか、流行りの絵柄(ユーザーがユーザーなので必然萌え絵です)に合わせるとかしないと上には行けないわけです。それはもしかしたら自分がそのアニメがすごく好きで、かつ憧れている絵師の絵柄を目指したという自発性にもとづくものであるかも知れませんが、好む好まざるに関わらずこれらはランクインの必勝パターンなのであり、人気絵師になるということは、こうした集合知的な萌え絵のコンテクストを「現地調達」したことになるわけです。

 村上も指摘するように最近ではこうしたロウアートも業界を形成していて、それはそれでマーケットを回しています。したがって「何がなんでもハイアート(芸術)で成功してやる!」という肩肘張ったスタンスじゃなくても、「まあそれなりで評価されたほうに行けばいいかな~」みたいな感じでもいいのかも知れません。
 しかし、最近Twitterで「絵を職にしたいならそのぬるま湯から出るべきです」という村上隆みたいな主張のRTが人気になってたんですが、それに対しての萌え絵師のrefeiaの返しが面白かった。

絵画的な絵はノータッチで漫画的な絵ばかり描いて、過酷な練習をせずにやってて楽しい程度の努力だけして、批判的な意見には必死で噛みついて論破した気分になり、自称絵師仲間で褒めあっていたら絵描きになってた

http://twitter.com/#!/refeia/status/74117553810706432
萌え絵の教科書 (三才ムック vol.385)萌え絵の教科書 (三才ムック vol.385)
(2011/05/19)
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 問題は、こう書いている彼自身が『萌え絵の教科書』を出すような極めてお手本的な萌え絵を描く絵師だということです(笑)。彼自身は過酷な練習を否定したかったようですが、却ってアイロニカルにコンテクストが動かし難いものとして立ち上がっているようにも感じられます。さて、アウトサイダーたちの明日はどっちだ。
  1. 2011/06/01(水) 23:36:00|
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「絵師100人展」感想。萌え絵というゼロ年代総括。

 近年、日本発の漫画やアニメ、ゲームなどの文化が世界から大きな注目を浴びています。日本での評価もまた見直されるようになり、海外ではこうした文化を通じて日本を知る若者も増えています。
中でも高い技術で秀麗なイラストを描く画家(イラストレーター)は、江戸時代の浮世絵師になぞらえ、「絵師」と呼ばれています。

(「絵師100人展」ポスター解説文より)
   絵師100人展

関連Link:アキバで「絵師100人展」開幕 人気イラストレーターが「日本」テーマに

 「絵師100人展」に行ってきました。思ったより面白かったので感想を書きます。
 面白いというのは作品ではなく、この展示会の企画自体が歪んでいて考えることが多いからです。萌え絵を江戸時代の浮世絵になぞらえてクールジャパンとして売り出そうとしていて、絵の題材も「日本」で統一されています。

 「独特の世界」「高い技術に裏づけられたクオリティとポテンシャル」と謳っていますけど、まあ嘘ですね。おおよそ2、3日で描いたと思われるいつも通りの商業イラストです。基本的にフォトショかペインターで描かれていて、フィルタが多用されている。背景もなしかコピペが多く、もちろん上手い方もいますが全体としての画力は決して高くない。
 「日本」というコンセプトも、予想どおり「巫女」「和服」「黒髪」とかポストモダンな「美しい日本」そのものです。浮世絵というか、浮世絵に影響されたモネとかのジャパネスクに近い感覚。ブシドー、ニンジャとかと大差ありません。このテーマは安直すぎて絵師さんも嫌だったかもしれませんが、でも萌え絵を浮世絵になぞらえて海外に紹介するとしたらこうするしかない気もする。

 ――と、さんざんdisっててアレですが、もちろん僕もオタクなので萌え絵は好きなわけです。そういった点を差し引いてもやっぱり萌え絵には力があるし、「世界」は郊外的で薄っぺらいけど、独特の美学はある。

 萌え絵のコンテクストというのはもちろん、「まんが・アニメ的リアリズム」ですよね。漫画、アニメの絵がベースになっていて、それが90年代にCGの普及でマッシュアップされる。その中で90年代末~2000年代前半に美少女ゲームマーケットが花開き、キャッチーな可愛さに特化したカラーイラストが大量に出回るようになる。これが「エロゲ絵=萌え絵」であり、それを描く「原画家=絵師」ですよね。
 個人的にも思春期の頃はたいそうエロゲ絵に魅かれていたんですが、それはやっぱりCGの特徴に魅かれていたところがあって、キラキラした光やペンタッチの出ない滑らかなグラデーションにある種のリアリティを感じていたんだと思います。それが漫画の絵と組み合わさってるのが新しかった。Keyのゲームの背景みたいなCGを自分でも描きたかったです(今でも)。
 伊藤剛さんがTwitterで「一般人は上手い、きれい、本物みたい」が評価軸だと言っていますが、萌え絵もロウアートなので大衆の欲望に忠実なわけです。なので、ハイアートのような評価軸がないし、高値で取引きされるマーケットもない。そもそもCGなのでいくらでも複製可能だし。そういう意味では浮世絵と似てるし、ハリウッド映画のVFXとかにも近いのかもしれない。
 …ただ決定的に違うところが1つあって、それがやたらに顔と目のデカい、「美少女」と呼ばれる奇形化したキャラクターなわけです。

 今回の参加者でもある大槍葦人さんのTwitterでの発言で、個人的にすごく印象に残っているものが2つあります。

今の日本のオタク文化って結構凄いかもしんないです。200年たったらすごく評価されると思う。

http://twitter.com/#!/oyari/status/26337601359

神聖さや、恋愛や、狂気については、理屈ではないからこそその存在意義があって、もし理屈で説明できるようならそれは偽物なのです。 RT @tosit_ane: @oyari じゃぁアヘ顔ダブルピースについて理屈っぽく語ってくださいよ!語ってくださいよ!

http://twitter.com/#!/oyari/status/39714588341702656

 1つ目の発言はたぶん「絵師100人展」の仕事を受けてのものだと思うんですが、これには僕もすごく同意したい。でもそうなると2つ目の発言がすごい気になってきて、なぜなら「歴史」っていうのはただのほほんとしていれば評価されるものじゃなくて、その作品の良さについてある程度論理的に歴史コンテクストの中で位置づけられて、はじめて評価を得るものだと思うんですよ。良い作品でも埋もれてるものなんて腐るほどあるわけで…。その意味で、批評を拒否しているような上の発言は僕は嫌悪感を持ちました。

 ただ、クリエイターって2タイプいるような気もしていて、大槍さんみたいに感覚とか身体性を重視する人(ドグマティズム)と、ロジカルに作る人と別れる気がするんだよなぁ。建築でいうとわかりやすくて前者がSANAA、後者が藤村龍至なんですが。
 大槍さんの作品は今回もすごく良かったし、自分の創作の論理としてドグマティズムが肌に合うというのはよく分かるんですが、「萌え絵」というコンテクストが歴史的に説明できなければロマン主義な西洋絵画の劣化コピーでしかないわけで…そこが苦しいと僕は思います。

 萌え絵のとりあえずの起源として、1つ「みつみ美里」というのが置けるかなぁと思っていて、彼女は2000年前後の同人誌即売会の女王で、かつ彼女の在籍していたエロゲメーカーのF&Cの絵柄が現在の萌え絵のベースになっているわけです。特に今回「絵師100人展」でキュレーションされた絵師の多くはそうした「エロゲ絵」で、2000年前後からエロゲやラノベの挿絵で活動し、アナログで線画を描いてスキャンしてPhotoShopで色を塗るというスタイルの作家が多かった。今回みつみさんは参加してなかったんですが、そういう意味でもこのメンバーならポスターの名簿の中心に配置されるのは、みつみ美里という秘匿された起源だったんじゃないかという気がした。
 そして萌え絵もpixiv世代になると道具の変化に合わせて若干変化してきていて、基本的にpixivの作家はペン入れの段階からデジタルの人が多いです。またフカヒレさんやKEIさんのように、Painterで油彩っぽく線画に頼らない描き方をする人も増えてきたし、あとぷちでびるさんとか、pixivのランカーはそもそも基礎画力がけっこう高くて、きちんと美術教育を受けているんじゃないかという印象がある。

 さてそんな中で、萌え絵とかこのあとどうすんのかなぁというのが僕の素直な感想ですね。エロゲもラノベもブームは過ぎたし、作家は多すぎだしデフレだし、岸田メル先生もイラストレーターじゃ食えないって言ってるし…。キャラクター消費は郊外化に付随しておそらく世界的な潮流だと思いますが、でも台湾とか、日本人以外にも萌え絵描ける人っていっぱいいるんですよね(むしろ最近はむこうのが上手い)。
 そういう意味でも一旦総括するうえで、ちょうどいいタイミングだったのかなという気がしました。10年後どうなってるかわかんないし。…というかぜんぜん他人事じゃなくて、たぶん漫画、ゲームとかはメディア環境の変化でこの先どうなるか本当に予測がつかないです。このすごく狭い世界に過剰適応しているのが「萌え絵」という文化なんですが、この先流れが味方してくれるといいなぁ…と祈るような気持ちにならざるを得ませんw

 あと最後に個別の作品についてですが、西又御大の絵は塗りの手間数がエロゲ絵のレベルを超えてる気がしました。さすがに最近一般パッケージ(米)とかやってるだけありますね。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110425/ent11042516080033-n1.htm

 自分がいちばん好きだった絵は、小梅けいとさんの作品です。秋葉原でメイドさんが客引きしてるっていうフツーの絵なんですが、なんか素直だし元気が出るし、いちばん衒いがない日本って気がした。いや小梅さんのことだから実は背後にものすごいエロ妄想が…とか言われるとアレなんですがw でも素直に良かったです。


関連記事:歴史と捏造

関連記事:京アニ版『CLANNAD』がエロいわけ ―Key作品受容の変遷―
  1. 2011/05/09(月) 02:55:00|
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郊外論としての宮崎駿。―「森」をキーワードに―

BRUTUS (ブルータス) 2010年 8/1号 [雑誌]BRUTUS (ブルータス) 2010年 8/1号 [雑誌]
(2010/07/15)
不明

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 『フラクタル』や『星を追う子ども』でジブリ的イメージ(特にナウシカ)が反復されています。BRUTUSのジブリ特集では、宇野常寛が宮崎駿の作品を「少女」などをキーワードにして物語論的に振り返っていましたが、同人誌を作ってからあらためて宮崎駿の作品って郊外的だなーと思ったので、彼の経歴を郊外論として振り返ってみたいと思います。上述のパクリ問題についても説明できるでしょう。

風の谷のナウシカ [DVD]風の谷のナウシカ [DVD]
(2003/11/19)
島本須美、納谷悟郎 他

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 よく、宮崎作品では「人間と自然」の対比が描かれていると言われますが、この対比は「キャラクター/キャラ」の対比とも読み取れます。
 宮崎作品で頻出するのは「森」のイメージです。『風の谷のナウシカ』では、人を寄せ付けない毒の森である「腐海」が登場しました(宮崎作品では海=森の見立て)。作中では、この森は人間たちの物質文明に対立する自然の象徴であり、はじめは畏怖の対象でしたが、物語のなかで次第にその森こそが人間の汚染を浄化しており、また豊かな生態系を築いていることが明らかにされます。「森」はいわばキャラのフィールドであり、宮崎作品では自然の多様性に仮託して王蟲など虚構のファンタジー的な想像力が発揮される場となっています。これに対して人間(キャラクター)の場である物質文明は、繁栄のために自然の生態系を破壊して、豊かさを簒奪するものとして露悪的に(ある意味リアルに)描かれます。人工/自然を対比して、人間の醜さと自然の豊かさを描くのが宮崎作品に見られる一貫した態度といえるでしょう。


人間=キャラクター=現実/自然=キャラ=虚構
 「キャラクター/キャラ」の対比とは、要するに「現実/虚構」の対比です。『ワールズエンド・ガーディアンズ』において、現代の若者たちは平坦な郊外を異化するものとして虚構の漫画やアニメに遊び、そこには魔法少女や「キャラ」たちの登場するさまざまな世界が広がっているということを述べましたが、宮崎は同じ操作を森を使って行っているのです。つまり平坦な郊外(現実)に対する漫画やアニメの多様性(虚構)が、宮崎作品では醜い物質文明(人工)に対する豊かな自然に仮託して語られているのです。

となりのトトロ [DVD]となりのトトロ [DVD]
(2001/09/28)
不明

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 『となりのトトロ』では母親の結核の具合から、澄んだ空気を求めてまさに「郊外」に越して来る一家が描かれます。当時はまだ色濃かった武蔵野(や所沢などの複数のイメージと言われる)の豊かな自然、田園風景…そしてそれらを象徴する不思議なおばけたち。子供にしか見えないこのおばけたちの存在は、同じく『ワールズエンド・ガーディアンズ』でkei_exさんが述べた「あいだ」の想像力として見られるでしょう。人工的に整備された都市において、子供たちが遊びの中で生み出す都市伝説――これらはすみずみまで大人たちに設計された都市の「あいだ(破れ)」を発見して虚構的な想像力を働かせる作業でしたが、本義的には元来人智の及ばない自然に対して発揮されるものでした(いわゆる異界)。昔の人々は豊かな自然をキャラ化(おばけ、八百万の神々)して畏れ敬うと同時に、憧れも感じていたのです。

 宮崎は近年のインタビューにおいて「現代の子供は自然に親しんだ経験がない。炎が描けない」などと、子供たちが置かれている自然と切り離された状況を悲観しています。郊外の宅地開発が進み、森が失われて日本中が均一のロードサイド文化に覆われてしまったのが現状の「郊外化」の進行なわけですが、このようななかで実体験がなく、漫画やアニメしか見ないで育った子供たちが、そうした「虚構」を再生産している状況がある(シミュラークル、まんが・アニメ的リアリズム)。
 先に挙げた『フラクタル』や『星を追う子ども』はこうした文脈で捉えられるでしょう。山本寛も新海誠も70年代生まれであり、ジブリの拡大と成長が共にあった世代です。この2作は両監督にとってターニングポイントとなる作品でしょうが、『フラクタル』では昨今の閉塞した社会状況や、キャラクター消費への反動としての物語的な想像力の希求として「あえて」ジブリ的な意匠が選択されているように見えます。つまり山本寛にとっての虚構的な想像力(=自然)のルーツとして、実体験としての自然ではなく宮崎アニメが参照されているのです。

 こうした実体験の伴わない箱庭的な虚構を、おそらく宮崎は是としないでしょう。社会学者の宮台真司も「映画制作者が小さな仲間内で馴れ合っていて社会を知らず、作品に深みがない」と指摘しています。そんな中において、スーパーフラットや漫画・アニメ的リアリズムの現状を作品内に構造化した『魔法少女まどか☆マギカ』は上手くやったと言えるのかも知れませんが。

天空の城ラピュタ [DVD]天空の城ラピュタ [DVD]
(2002/10/04)
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 『天空の城ラピュタ』では、工業的な炭鉱都市に対して「自然」に対応するのは古代文明の遺産であるラピュタです。人工物であるラピュタが「自然」として見立てられるのはいわゆる「偽史的想像力」で、古寺仏閣や古来の伝統に対して神性を感じるのと同じ理屈。『東方Project』などがこの典型です。
 空中都市、飛行石、ロボットなどファンタジー的なギミック、キャラはすべて古代文明の側に属し、失われた技術(オーパーツ)として虚構的な想像力が発揮される。そしてそれらの虚構はラピュタの末裔であるヒロイン・シータというかたちで主人公パズーの前に提示され、いわゆるセカイ系の構図で現実/虚構の対比が描かれます。――結末として、2人はラピュタ(虚構)の崩壊を選び、飛行石と世界樹は天(自然)へと還ってゆく。
 同様に、『ナウシカ』でもナウシカは人工/自然の境界に位置する巫女(戦闘美少女!)として描かれています。少女をこのような境界線上の巫女として象徴するのは魔法少女ものの手つきと同様でしょう。

魔女の宅急便 [DVD]魔女の宅急便 [DVD]
(2001/06/08)
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 『魔女の宅急便』。魔女見習いのキキは、親元から離れて街に修行に出る。魔法少女であるキキは虚構を司る存在ですが、この物語では子供から大人へと成長していく過程で万能感にどう折り合いをつけ、地に足をつけて現実に馴染んでいくかが描かれます。途中、彼女は少女期の終わりとともに魔法を失いかけるが、トンボや絵描きのウルスラ、おソノさんなど街の人々との関わりのなかで「魔女の宅急便」として社会にアイデンティファイしてゆく。

紅の豚 [DVD]紅の豚 [DVD]
(2002/03/08)
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 『紅の豚』。主人公は豚(キャラ)。キャラであるという点で現実の関係性からズらされる(恋愛関係にならない)。豚の主人公を中心とした、宮崎の好きな飛行機を集めた第一次大戦後の偽史的な世界観。
 淡い恋心を抱いていたジーナは友人と結婚し、その友人は戦争で他界。そうした届かぬ想いが豚に象徴される。この呪いはポルコに好意を寄せるもう1人のヒロイン・フィオをめぐってカーチスと戦い、彼女の口づけを受けることで物語の最後に解かれることになる(と同時に物語が終わる)。

耳をすませば [DVD]耳をすませば [DVD]
(2002/05/24)
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 宮崎が脚本で参加した『耳をすませば』は、もっとも郊外色が強い作品です。『アニメルカVol.3』によれば、柊あおいの原作は少女漫画的な匿名的な郊外の物語だったが、劇場化にあたって物語の舞台を多摩丘陵の聖蹟桜ヶ丘近辺のニュータウンとしてディテールを作り込み、魅力的な街として描いています。この作品でも鍵になるのは「あいだ」の想像力であり、計画的に作られた都市の「あいだ」(ネコ、骨董屋、タンク山)を発見することによって、雫にとって見慣れた街(コンクリート・ロード)は輝かしいものに変化します。

 多摩丘陵近辺はジブリの会社が位置しており(小金井市)、高畑勲監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』でも舞台となっています。『ぽんぽこ』ではトトロ的な異界の存在である化け狸たちが主人公として描かれ、森を開発しようとする人間と戦います。結局狸たちは開発に追いやられ、人間に化けて現代社会に溶け込んでゆくのですが、しかし都市の「あいだ」には今でも不思議が残っているよ、ということが示唆されています。

もののけ姫 [DVD]もののけ姫 [DVD]
(2001/11/21)
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 『もののけ姫』。宮崎作品に通底する人工/自然の対立をもっとも端的に表した作品であり、この時点の宮崎の総決算的作品。森に人為的に介入するエボシたちタタラ場の人間たちと、豊かな森の象徴たる神々の戦い。そこにタタリ神の呪いを受けタタラ場に身を寄せるアシタカと、森の獣に育てられた少女のサンが絡むことで物語が展開する。人間たちは森の豊かさの象徴たるシシ神の首を落とすが、首を落とされたシシ神はダイダラボッチとなって森を飲み込んでゆく。思い上がった人間が大自然の怒りに触れるようすが描かれ、この事態は人間と自然の相の子であるアシタカとサンの手でシシ神に首が返されることでとりあえずの終息を見る。そしてアシタカは森を去り、サンは山犬とともに生きる道を選ぶ。

千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]
(2002/07/19)
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 『千と千尋の神隠し』。千尋は気乗りのしない郊外への引越しの道すがら、古い祠を通って異界へと迷いこむ(神隠し)。異界の旅館の主・湯婆婆に名前を奪われた千尋は、「千」となってこの宿で働くことになる。この宿を湯治に訪れるのは、トトロ的な異形の妖怪たちであり、日本古来の八百万の神々である。虚構の世界で過ごすなか、彼女は少年ハクやカオナシと出会い、物語の核心に迫ってゆく。この話の真相は、人間の開発の手が進むことで古来からの自然(ハレとケ)が失われ、象徴たる神々が衰退している(ケガレ)ということ。色々あって名前を取り戻した千尋は現実へと帰還する。しかしこうした「あいだ」に触れた彼女は、もはやフラットな郊外の風景の中に違うものを見出せるようになっていたのである。

ハウルの動く城 [DVD]ハウルの動く城 [DVD]
(2005/11/16)
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 『ハウルの動く城』。『もののけ姫』以降、宮崎作品はストーリーが曖昧になり、白昼夢的な妄想の側面が強くなってくる。これは東浩紀が動物化、データベース消費を提唱したのと同時期であり、直接の関係はないにしろともに「大きな物語の消滅」への応答と考えられる。『ハウル』では、タイトルにあるハウルの居城が歩いて移動することにより、物語がさまざまな世界を巡るパッチワーク的な様相を呈している。
 西の魔女の呪いにより老婆の姿となった主人公の少女ソフィーは、場面によって年齢が変化したりと「キャラクター」としての一貫性を失っている。この物語にあえてストーリーを見出すとすれば、これはソフィーがハウルの心を探す物語だと言えるだろう。作中の巡る世界自体がハウルの精神世界であり、虚構に満ちている。彼は魔法使いであり、姿形などは思うがままに変えられる。ソフィーはハウルの内面たる動く城に乗り込み、ともに世界を旅することで彼の本質を発見したのだろう。

崖の上のポニョ [DVD]崖の上のポニョ [DVD]
(2009/07/03)
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 『崖の上のポニョ』。よく「意味が分からない」と言われるポニョだが、郊外論として捉えると理解しやすい。基本にあるのは今まで宮崎作品で繰り返されてきた人工/自然の対立であり、港町での船と関わりの深い人々の暮らし(人工)と、豊かな生命を育む水の森たる海(自然)の関わりを描いているといえる。宗介のもとに海の化身たる魚の子・ポニョがやってくるところから物語がはじまるわけだが、ポニョは虚構的なキャラであると同時に、人間の少女の形態にも変化する。これはいわゆる「萌え擬人化」の文脈でとらえるとわかりやすいだろう。しかし、ポニョの愛らしさとは裏腹に、海は理不尽な大洪水によって港町を襲い、街は水没する。東日本大震災後に観ると戦慄だが、しかしこの作品において現実の津波のようなカタストロフは描かれない。水没後の世界はどこか虚構的であり、人々は非日常にありながらも楽しげだ。最終的に宗介は自分の母親を探して、ポニョの母親であり母なる海の象徴であるグランマのもとにたどり着くが、宗介とポニョを見て、2人の母はなんとなしに融和し、理解し合ったようになる。こうして非日常のまま、世界が日常に戻らずにエンディングを迎える。

借りぐらしのアリエッティ [DVD]借りぐらしのアリエッティ [DVD]
(2011/06/17)
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 最新作の『借りぐらしのアリエッティ』。宮崎は脚本で参加している。舞台はやはり郊外であり、人間の家の床下で小人の一家が人間のものを拝借して暮らしている。彼らは虚構の存在でありながら仲間がおらず孤立していて、人間に寄生しなければすでに種の存続すら保たれていない。人間の少年・翔は自分の病と重ねながら「君たちは滅びゆく種族なんだ」とアリエッティに言い放つ。これは、もはや現代では「あいだ」の想像力すら風前の灯であることを言い表しているように聞こえる。
 翔もまた弱い存在である。心臓病を抱え、無力感と先の見えない不安に苛まれている。宮崎は社会的自己実現の目標を失った現在の男子たちを「女の子より男の子のほうが大変だ」と評しているが、翔はまさにそんな少年たちの象徴として描かれているかのようだ。神木隆之介をモデルにしたといういでたちも、いかにも草食系男子然としている。そんな彼が「僕にも出来ることがあるかもしれない」として小人を救おうと奮闘するさまは、典型的なレイプ・ファンタジーだが、そのショボさがむしろ悲壮感を誘う。
 結局、小人の一家は床下を出ていくことになる。しかし翔の奮闘によって何とか小人の秘密は守られ、アリエッティは最後に翔とのわずかな交感を交わして庭ざかいの用水路に消えてゆく。また翔も、この出来事が過去の思い出として語られることで、手術に成功した事が暗に示唆される。この物語は、虚構が失われゆくなかでギリギリの撤退線を戦い、希望(アリエッティ)を未来に繋いだと言えるのではないか。


起源、「無意味な物質」としての宮崎アニメ
 このように、宮崎作品を貫くメタテーマが一貫して「キャラクター/キャラ」であり、虚構は森を依り代として展開されてきたことを指摘したいと思います。しかし、こうしたテーマ設定は既に時代に合っていないと僕は感じています。もはや世界は総郊外化し、ポストモダンで自然体験はむしろ宮崎アニメからという世代が大勢を占めるようになってしまった現在、そのような文脈において宮崎アニメが自然を礼賛することは「サツキとメイの家」や「三鷹の森ジブリ美術館」を現実に現前させてしまうような皮肉なキャラ消費にしかつながらない気がします。
 そうではなく、シミュラークルとまんが・アニメ的リアリズムに覆われてしまった世界でどう豊かさを生み出すかということが現在問われるべきなのであり、山本寛や新海誠を含む多くの若手作家は既にそうしたフェイズに入っているように思います。

 ただ、宮崎作品は若手の視聴者と同世代の作家とは違う語彙を用いているからこそ魅力的に映る、という事情もある気がするので、そこの関係はトレードオフなのかなとも思います。「作品は先行する時代に片足を突っ込みつつ古びていく」(福嶋亮大)
  1. 2011/05/05(木) 22:35:00|
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