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ぐちゃぐちゃに出来上がってしまっている世界 戦後建築史

思想 2011年 05月号 [雑誌]思想 2011年 05月号 [雑誌]
(2011/04/30)
不明

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 『思想』の伊東豊雄、山本理顕対談を読みました。
 バルセロナでは「建築が社会を変えること」が期待されていると言う伊東。ラテン・ヨーロッパの国々にはこうした気風があるという。近代建築の始祖であるル・コルビジェは、キュビズム由来の芸術としての側面と、社会変革の側面を重ね合わせて建築を作ろうと取り組み、伊東ら後進の建築家もその精神を受け継いでいるのだと言う。

 コルビジェのアトリエは前川國男、吉阪隆正、坂倉準三という3人の日本人建築家を輩出しており、日本の建築にも直接的な影響を与えた。特に前川はコルビジェから学んだモダニズムを用いて多くの公共建築を手がけ、公共性に関わる提言を行った。前川は「社会性」を主張し、「市民の主張を叶える」のが建築家であるというスタンスを明快に打ち出していたという。

 しかし前川から丹下健三の時代になると、日本において建築家の役割が変化してくる。つまり1950年代後半から60年代(昭和30年代)の経済成長と相俟って、「社会を変えること」よりも「未来のビジョンを示すこと」の象徴的な側面に役割がシフトする。それは64年の東京オリンピック、70年の大阪万博を頂点とし、現在の中国のような状況だった。

 丹下はこの時代「東京計画1960」という都市ビジョンを発表し、「東京湾を横断する巨大インフラを作り、そのインフラからさらに小さなインフラが枝のように広がって、あらゆる施設がそのインフラに接続される」というインフラを主幹とする徹底的に標準化された都市像を描いた。このようなビジョンが60年代の思想だったと言えるだろうし、この時代に活躍していた若手のメタボリズムの発想もこの文脈に則していたといえる。またたとえば、丹下はこのような都市集中のビジョンだったために田中角栄の地方分権路線とは相容れず、政治には食い込めなかったとされているが、田中の『日本列島改造論』もインフラを主幹とする標準化された都市モデルという意味では、丹下の東京計画の変奏だと言えるだろう。このようなモデルは後に「大都市と同じものを地方にも「ワンセットでそろえる」という政策が、過去30年間日本中で実現されてきたのだ!その結果、生まれたのがファスト風土だ」と三浦展に批判されるように、郊外化を引き起こす要因となるのだが、この時代においてはまだ行政官僚制を主軸とする標準化された近代社会像が素朴に信じられていたということだろう。万博で実現した丹下の「お祭り広場」は、このようなインフラの思想を体言していた。

 このような標準化の思想は、むしろコルビジェ同様に近代建築の起源とされるミース・ファン・デル・ローエに近似してくる。ミースは均質な構造体が内部空間のあらゆる機能を許容するという「ユニバーサル・スペース」の提唱者であり、現在林立しているような高層オフィスビルのフラットな空間の生みの親だが、伊東によれば彼は「建築は形態ではない、建築は時代の意志を空間に反映するだけだ」と語ったという。その言葉どおり、ミースのユニバーサル・スペースはグローバル化の意志を反映して世界中に広まり、日本においても丹下や田中に代表されるまでもなく標準化によってフラットな空間が普及していった。

 山本はコルビジェとミースの違いについて、「芸術家と仕立屋」という表現を用いて解説する。それによれば先に述べたように、芸術家が個の創造的な発見によって社会を変えることを志向し、暮らし方としての空間の新しさにこだわるのに対し、仕立屋は社会の要請に応えて市民の主張を叶えることを重視するために、最終的には経済原理に任せて“なんとでもなる”ユニバーサル・スペースに辿り着く。こうした「コルビジェ/ミース」「芸術家/仕立屋」という対比は、現代の「アトリエ設計事務所/組織設計事務所(ゼネコン)」という問題系にまで連綿と続くものだ。

 70年に万博が終わると、前年の大学闘争なども相俟ってこうした未来への期待も霧散する(三島由紀夫の割腹自殺も70年)。それは端的に言えばユニバーサル・スペース(郊外化)の憂鬱との出会いだろう。『日本・現代・美術』において椹木野衣が指摘した、反動としての「ハンパク(反万博)芸術」の気分に建築も遅れて突入していくように見える。

 60年代に「都市デザイナー」を自称していた磯崎新はこのころ「建築に未来はない」と語り、夢の終わりを印象づけた。70年代に設計活動をはじめた伊東は大層磯崎の影響を受けたと言う。オイルショックの経済停滞なども重なり、建築は内向してゆく。都市から撤退し、「芸術」「アナーキズム」「内向的」「住宅」などが主要なタームとなる。ミニマリストの篠原一男は「都市に背を向け、小さな住宅の中で閉じたユートピアを作ることだけが建築家に可能だ」と語り、安藤忠雄は「住吉の長屋」で日本建築学界賞を受賞した。同時期に伊東も「中野本町の家」という中庭型の住宅を発表して、安藤らとともに外に閉じて中庭に開くタイプの個人住宅のさきがけとなる。しかし伊東によれば「(建築は)食えない」という自分の状況が内向に向かわせた側面もあり、公共建築を手がける磯崎にジェラシーを感じていたという。

 一方磯崎は「つくばセンタービル」(写真→)など、80年代にかけて隆盛する「ポストモダニズム」の体現者となっていく。ポストモダニズムはその名のとおりモダニズムの「標準化」的な思考に対する批判として現われたわけだが、伊東によれば磯崎らポストモダニズムの建築と言うのは、結局のところ「標準化」されたプランに対する抵抗を諦め、歴史的なアイコンによって表層を飾り立てるものに矮小化していく。日本ではそのころちょうどバブルだったこともあり、ポストモダンの派手派手しい建築は経済成長のアイコン=いわゆるバブル建築として日本全国に建設される。しかし外見に反して内実は「標準化」されたユニバーサル・スペースでしかないそれは、三浦展が指摘するように個性や創造性を誘発するような「建築」ではなかった。
 後に宮台真司が述懐するように、バブルの文化を主導したのは70年代の学生運動が下火になった後に成人を迎えた、彼ら「シラケ世代」だった。シラケ世代のメンタリティは「現実はつまらないが、(政治の季節も終わったので)現実は変えられない」というもので、その代償として以前は風俗街だった場所を資本投下によって「渋谷公園通り」というオシャレな街に読み替えるような「現実の虚構化」を行った。ポストモダン建築は、彼らの今で言えば「郊外的」な文化に仕立屋的に花を添えたものの、あらかじめ断念が折り込まれた文化が社会を変革することはなかった。

 これに対して伊東と山本はポストモダニズムの原義に立ち返り、その視点の意義を救出する。ミースの"Less is more(少ないことは豊かである)"に対し"Less is bore(少ないことは退屈である)"と言ったヴェンチューリの視点をもっと的確に表現する建築があれば、それはかなり豊かなのではないか。
 こうした考えから、彼らは「(ユニバーサル・スペースである)建築を外に開くこと」「インフラに介入すること」「「生活」という言葉でライフスタイル(社会)を考えること」などの思想を獲得して自分たちのスタイルを確立してゆくことになるのである。

山本 効率のいい建築に社会性があると勘違いするかぎり、建築家はただ表層をデザインするだけの仕事にならざるをえないし、建築家の思想がその効率に対抗できるはずがないと思う。そうではなくて、その建築が周辺環境や地域社会にどう貢献できるのか、という視点で考えると、建築家は発注者の利益だけを考える役割とは相当違ってきます。



 僕なりに彼らの建築家としての歩みをまとめるなら、それは「「公共建築」という枠組みとの戦いの人生だった」という風に括れるように思う。公共建築がかつて社会的使命を帯び、未来のビジョンを示す建築だった時代を経て、それらは標準化されたインフラの一部として埋没し、果てには悪しき行政官僚制の体現であるとして批判の的となる。伊東や山本が示している理念というのは、それに対する内側からの変革の処方箋だと言える。

 しかし、ここに根本的な疑問が2つあるのではないかと僕は思っている。それは、

1.そもそも社会を変えることが望まれているのか?
2.変えるとして、それが「公共建築」でなければならない必然性があるのか?


ということだ。1について、ユニバーサル・スペースの機能主義を変革するには、インフラ(枠組み)に介入し、建築を外に開き、新しいライフスタイルを提示するという発想そのものは、とても真っ当に思える。しかし、それをどれだけの人が望んでいるのかということに対しては、僕はナイーブにならざるを得ない。たとえば「建築を外に開く」ということは、どんなに工夫したとしても、熱効率や管理という機能主義的価値観では機能が劣るということに他ならないし、ゆくゆくはそれがコストに跳ね返ってくる。また、「○○っぽいものが欲しい」というように、人々が標準化(キャラ消費と言い換えてもいい)の欲望に抗い難いことは厳然としてあり、山本が公共建築の設計においてコンフリクトを起こし「多目的ホールは無目的ホールに堕落します」と言われてしまったのは、建築家が仕立屋以上の役割を求められていないことの証左であろう。これをラテン・ヨーロッパや日本の一部の個人住宅がそうであるように、「建築が社会を変えること」を期待されるようになるには、まず公共建築にかかっている行政官僚制(公務員)の圧力をいくらかでも和らげてやらなねばならないように思うのだ。

 話はやや脱線するが、日本のオタクカルチャーのクオリティーというのは、こうした標準化の圧力によって担保されていると言えるだろう。いわゆる「萌え豚」が買い支えると同時に「作画崩壊しない」、ある一定ベクトルでのクオリティーバブルを求めた結果生まれたのがアニメ『けいおん!』であり、ある一定の絵柄での洗練を求め短期間で萌え絵のクオリティーの底上げに貢献したのがpixivランキングである。オタクカルチャーに限らず、日本的細やかさの源泉になっているのはこうした集合無意識的な標準化への圧力である。伊東は「精度のよすぎる社会」としてこれらを批判するが、必ずしも欠点とは言えないことがこの問題をややこしくする。

 次に2についてだが、以上のように公共建築にかかる標準化の圧力はかなりのものである。そんな中であえて「公共建築」にこだわって社会の変革を目指す意味は何なのか。現実的な話をすれば、そうはいってもやはり公共建築がそれなりに自由度が高く、規模が大きく、自分の理念を示しやすいクライアントであるからに他ならないだろう。民間というのは資本の論理であり、建築家は資本の流れの中で表層のデザインに追い込まれながら仕事をせざるを得ない。
 しかし社会状況が逼迫する中で、公共建築だけが特権的に予算を優遇されるような環境には最早なっていない。したがって山本がそうだったように、公共建築に対して「社会に資しているか」、いやそれ以前に「標準化以上のものが求められているのか」という厳しい視点での追求がなされることは何ら不自然とはいえない。
 また、民間による資本の論理をマネーゲームとして見れば、それはサブプライムのように流されるのが危ういのは確かである。しかし、そうした資本の流れを「必要の用」として見るならば、たとえばショッピングモールやマンションに新しい公共や社会性を見ることも不可能ではない。むしろ磯崎やレム・コールハースが体現するような可能性の中心は、こちら側にあるように思われる。問題は、こちらはこちらで資本(価格)による「精度のよすぎる社会」に縛られていることである。

 この対談を読んで確信したのが、建築に対する争点というのが「変える/変えない」のみならず、その前哨戦としての「建てる/建てない」の時点から既にはじまっているということだ。仕立屋として標準化の設計に貢献するだけでは、決してこの「変えなければならない」と言う人と「変えたくない」と言う人がずれ続ける状況に介入できない。伊東や山本はネームバリューによって変えようとするだろうが、一方椹木が言うように「上から」の圧力に抵抗するときのこの国の下層中産階級のパワーにもすごいものがある。
 状況が変わるとすれば、それはむしろ変えようとして変わるのではなく天変地異で変わるのではないかという気がする。「3.11が人災である」という意味は、誰かが怠慢を起こしていたというよりは、私たちの社会の標準化圧力がそれだけ抗い難く、かつ大した根拠がないことが明らかになったということだろう。大塚英志は震災に共振して社会設計の不備を指摘する磯崎に嫌悪感を示したが、かといってそのまま元どおりに再建するだけの根拠もないというのが実情に思える。

 「私たちの目の前にあるのは、何かぐちゃぐちゃに出来上がってしまっている世界である」と言ったのは上遠野浩平だったと思うが、上遠野の描いた物語のように社会の変革が暗黙のうちに阻止されていくこの世界にも、やはり「ブギーポップ」が棲んでいるのかも知れない。


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