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『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(下)


『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(上)

(上)ではこういう事を述べました。

・「病気/健常」「普通/異常」「男/女」などの線引きは社会的(便宜的)であること。
・概念とはグラデーションであり程度問題がつきまとうこと。
・二元論的な割り切りは便宜的であり、視野が狭い(中二病)。
・ゆえにトランスジェンダーが先天性であれ、問題は無い。


Twitterを見ていて思うんですが、世の中に「普通の人」っていないんだなぁーと。みんな普通の人たちだと思うんですが、1人1人を取り出してみるとけっこうアクが強いもんだなぁと感じます。たぶん世の中ってそういうもんで、いろいろあってもまぁ何とか暮らせているかぎりは「普通」なんだと思います。それがどっかの知事みたいに偉くなって、個人が注目されてしまうと個性だか欠点だかが目立ってくるんだろうなと…。

トランスジェンダー当事者についてはそんな感じですが、次は倒錯“趣味”について考えます。『放浪息子』もそうですが、こういう性倒錯ものを好んで消費することは異常なのか?


やおい消費
性倒錯消費といえば有名なのはやおい(ボーイズラブ)ですね。やおい消費に関してよく言われるのはこれ。

かつての少年愛作品に対しては、思春期の少女が(既存の)女らしさに対し自己嫌悪を抱き、男になって男を愛したいと思うことが発生の背景にある、と言われていた。たとえば、唐沢俊一は、やおい及びBLは女性が自らの女性性を嫌悪した結果生み出されたとよく説明している。本人もやおいを手がける中島梓も、『タナトスの子供たち』において同種の説明をし、社会学者上野千鶴子やユング派心理学の第一人者河合隼雄もやはり同様の趣旨のことを述べており、いままでは最も一般的な説明であった。この嫌悪感については、社会の女性蔑視が女性である少女自身に内面化された結果であるとされる。

Wikipedia「やおい」
『タナトスの子供たち』では、同性“であるにも関わらず”好きだというところに超越性を見出す、異性愛よりも崇高なものを見出すというようなことが書かれていたように思います。宮台真司も似たようなことを言っていて、自分の性愛体験から距離を置いて関係妄想に浸る工夫であるとしています。その他の意見としては「異性愛の安全なシミュレーション」であるとか、そのものずばりトランスジェンダーに消費されているというものもあります。

よく言われるカップリングですが、これは男子のホモソーシャルな関係性を「こいつら仲いいな→付き合っちゃえよ」と発展させたもの。このインフレ的な愛情を少年漫画などに事後的に見出す視点が、腐女子が「腐っている」由縁なわけですが、まあ実際男から見てもあれはヤバイと思う界隈もあるのであながち間違いとも言えないでしょうね。ただ友情をすべからく愛情として見るのは、先の例同様中二病的ではあります。それ自体「ガチ/ネタ」というグラデーションの留保がつくんでしょうが。
またライトなBLになるほど受けが女男だったりと、「異性愛の安全なシミュレーション」としての側面が強くなっている。「やおい穴」なとがその典型でしょう。これは作家にとってはファンタジーという側面もあるのでしょうが、消費する側にとっては無知ゆえに変に思わないという可能性が否定できない。まぁ間違っているから良くないとは思わなくて、これを叩き台に正しい知識に誘導できればいいと思うのですが。無菌状態がいちばん良くない。

一方、そんなやおいを消費する腐女子のコミュニティに対してはこんなことが言われている。

社会学者の東園子は、腐女子が形成するコミュニティを女性版のホモソーシャルと解釈できるとしている。ホモソーシャルとは文学研究者・社会学者のイヴ・セジウィックが提唱した概念で、男性同士で友情をはじめとする社会的なつながりが形成されてその間で女性は貨幣のように交換されるという構造を持ち、ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)という2つの特徴がある。腐女子のコミュニティでは、通常のホモソーシャルの枠組みにおいて女性が貨幣として交換されていたかわりに、物語の中の男性が欲望の対象として女性同士の間で交換される。(通常の男性の)ホモソーシャルにおける女性嫌悪についても、これを異性嫌悪と読み替えれば、(物語の中ではなく現実の)男性に対する嫌悪として腐女子のコミュニティに間に存在している(やおい系の同人雑即売会で男性の入場が禁止される例など、現実の男性を排除する傾向がある)。

Wikipedia「腐女子」
ホモソーシャルな男社会では、女や萌えキャラの話題はコミュニケーション円滑化のために貨幣として交換される。腐女子もこれと同様に、やおい話として男を貨幣化しているという指摘です。女子会など、腐女子にかぎらず同性でつるむ流れは強まっており、若者が恋愛から退却しているという話はよく言われています。

同性でつるむといえば百合(レズビアン)もありますが、百合は女性だけでなく男性の消費も多いジャンルです。


男の娘と草食化
さて『放浪息子』ですが、これはジャンルとしては男の娘ものであり、やおいや百合の同性愛ではなくトランスジェンダーです。トランスジェンダーは漫画のネタとしては珍しいものではないですが、ここにきて「男の娘」という名前でフィーチャーされるようになったのは何故なのか。

僕はこのベースにいわゆる男子の「草食化」があると考えます。宮台真司によれば、90年代の援助交際ブーム以降女子が「肉食化」し、男子はリスクを恐れて性愛コミュニケーションから撤退する草食化が起こった。これがジェンダーかく乱の第1段階。そして彼らの中には内面だけでなく、外見も線の細い女の子のような少年たちがいた。ここから「こんなに可愛い子が女の子のわけがない」と飛躍するまであと1歩でしょう。これが第2段階。特に妄想のなかではこの飛躍は容易であり、男の娘としてジャンル化されるようになった。したがって『らんま1/2』や『ストップ!! ひばりくん!』よりも、現在の男の娘作品は社会的背景が色濃いように思います。

ところでアニメ『放浪息子』の話の中心は恋愛や人間関係であり、トランスジェンダーとしてのアイデンティティではありません。したがって僕はこの物語をやおい・少女漫画的な関係性の文学であり、『エヴァンゲリオン』的な自分さがしの物語ではないと捉えました。少女が肉食化し、少年が草食化するなかで、「少女」的な要素が男性に見られるようになった現実を少女漫画が追認したのだと思います。

少女漫画はオタク系と違い、「セカイ系」や「決断主義」のような明確なアティテュードがありません。セカイ系や決断主義は、読者がそれを規範として内面化することができますが、『放浪息子』の二鳥くんの態度を抽出してロールモデル化するのはたぶん難しいでしょう。よく言われるように、少女漫画は「これってあるある」的なシーンの寄せ集めであり、現実社会で起こりつつある予兆を敏感に感じ取り、それを劇画化して気分を一般化するのがもっぱらの役目です(まどマギの杏さや二次などは典型的)。


「普通」をめぐる駆け引きと運動
さて核心に迫ります。倒錯好きは異常なのか。
年末年始にかけて話題になった都条例(いわゆる非実在青少年)問題に顕著なように、漫画やアニメに描かれる性行為を不健全であると感じ、規制しようと考える人々が一定数おり、当然やおいなど性倒錯ものもこの対象となります(ちなみに18歳以下という制限も取っ払われた)。要約すると子供に悪影響を与えるというのがその主旨です。

僕は「影響を与える」という点には同意します。『ワールズエンド・ガーディアンズ』の郊外論で述べたように、若者たちのメンタリティは郊外のポップカルチャーに色濃く影響されており、それを規範として生きているのはありありとしています。
しかし、漫画、ゲームやアニメだけを規制するのは反対です。なぜなら若者に影響を与えるのは、彼らの身の回りにあるすべてのものだからです。たとえば無菌化した郊外の環境のせいで応用力のない子供が育ち、学校で「夢を持ってがんばれ」と教えられた結果進路選択を誤り、親のいいつけを守った結果就職が困難になっている現状で、なぜ漫画やアニメだけが「悪」とされ、親や学校や教師が規制されないのか?意味がわからない。

これについては、都知事である石原慎太郎の経歴がもっとも雄弁に答えを語っていると思います。難ですが若くして有名になった石原ほど、言動のトレーサビリティの高い人間もあまりいません。
「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう」と同性愛者を蔑視し、「幼い子の強姦があり得べきストーリーとして描かれているものは何の役にも立たないし、百害あって一利もないと思う」と断ずる石原ですが、著作に見られるように彼自身もかつて強姦をテーマとして扱い、また買春経験なども披露しています。「いかなる書物も子供を犯罪や非行に教唆することはない」と記したこともありました。

しかし彼は、この記述をこの度の騒動で撤回し「そのころ私は間違っていた」と発言するに到ります。正直、この流れはある程度理解できます。理由としては

1.若い頃は世界が狭く、年上に対して反発心や自由への渇望があった。
2.親や監督する立場となり、状況の酷さを理解した。
3.時代が変わり、世の中の規範が変化した。

といったところでしょう。こう考えると彼に限らず世の中の大人が自分の若い頃を顧みず、子供の行動を規制したがる構図が納得できます。
特に3についてですが、基本的に世の中の規範というのは、リベラルな世の中ではだんだんと緩くなっていくものだと思います。規範(ルール・マナー)があれば、必ず誰か楽をするために破るヤツが現れて、それがなし崩し的に普通になっていく。したがって、年長者にとっては年下は常にだらしなく感じられるわけです。

べつに僕も性倒錯にハマってるわけじゃないので、やおいを嬉々として消費し、性愛から退却して同性で固まり、草食化して男の娘になってる現状を「望ましい」とは思っていません。でもネイティブにとっては、それが「普通」であり幸せなのです。かくして「普通/異常」という視点に関して石原―僕―腐女子、あるいは石原―僕―トランスジェンダーというグラデーションが出来上がるわけです。

二鳥くんのように今はまだぼんやりとした好みでしかなくても、それはやがて分かち難く実存と結びつき、自分の人生に影を落として選択を迫ってくる。そうして他の可能性を捨て、負のレッテルも込みで選択を受け入れたときに、僕たちはファッションを卒業して真性の“それ”になるのでしょう。
“それ”になったからには、「私変態なんで…」とか自虐せずに、年長者の規範から自分の「普通」を勝ち取らなくてはならない。そしてそれと同時に、そんな自分が幸せでいられる、時代に合った新しい生き方も探していかなきゃいけない。そう思います。
  1. 2011/04/02(土) 02:10:00|
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