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歴史と捏造

磯崎はいう。「建造物、祭祀、歴史的成立の事実、そのすべてが<隠されている>ことこそがイセという問題構制の基本となるというべきなのである。イセはひとつの時点で捏造された。だから起源などない。だが、それがあったかの如くに騙ることで、誘惑が持続する」

(P237)

アーティストは境界線上で踊るアーティストは境界線上で踊る
(2008/02/23)
斎藤 環

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HIROSHI SUGIMOTOHIROSHI SUGIMOTO  .
(2007/07/14)
杉本 博司

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『アーティストは境界線上で踊る』の杉本博司の項が面白かったので書きます。
静的な写真をはじめ、最近は「護王神社」など建築も手がけるアーティスト、杉本博司。「神秘性、唯一性」を強調する“ベタな”アーティストである杉本に対して、斎藤環が手がかりとしたのが建築家、磯崎新の「イセ――始源のもどき」(『建築における「日本的なもの」』)という論文です。


隠す・もどき・レプリカ
伊勢神宮的な歴史性に杉本がベタにインスパイアされたのに対し、批判的な建築家である磯崎は「起源などなかった」と結論づける。つまり儀式が社殿というハコで隠され、限られた人しか見られないのも、歴史の根拠があいまいなのも、核心など無いからである。また、儀式自体も見えない神に語りかける、招来の「もどき(擬態)」であり、決して本質は起こらない。しかし、それを「隠す」ことによって起源への誘惑が保持され、歴史性(ナショナリズム)を喚起する――根拠のなさを乗り越えられる。また、20年毎に社殿のコピーを作成し神体を移転する式年遷宮は、「アイデンティカルなレプリカを作成しつつ、不純物を排除しながら純粋形へと再デザインをくり返してきた」行為であり、それは依代としての天皇制にも通じるという。

「13世紀にわたって持続してしまったその起動力は、ここに明快で統括された教義がなく、時代を通じて新しい何ものかをその周辺に付加し習合させ、ときには廃棄していくことを可能にする一種の融通性」にあるとしている。

(P237)

このイデアルな純粋形こそが、いわゆる「日本的なもの」(建築のジャーゴン)である。
つまり起源など存在しない。全体として、捏造された「もどき=始源」の反復によって本質の空虚、「起源」を隠蔽することが「日本的なもの」を安定化させている、というのが磯崎・斎藤の見立てです。


本物/捏造
ここで僕は杉本イカサマ批判をしたいのでも、歴史陰謀論を唱えたいのでもありません。ただ「オレの仕事はオンリーワンであり、誰にも再現不可能」と言いのける人がいる一方、長年本質を追求してきた磯崎が「根拠はない。無根拠に堪える」とくり返すこの現状は何なんだろうと思うわけです。

片方に「自分は本物である」と主張する人々がいる。杉本のようにオンリーワンを標榜したり、歴史的正統性を主張する。たとえば大河ドラマなどの日本史的な語りや文化、あるいはまちづくりの合意形成として持ち出される歴史コンテクスト。前述にしたがえばその根拠はいまやかなり怪しいと思われるものの、日常レベルの合意としては十分機能する。「日本ってすばらしいですね」とか感動されたりもする。しかし本当にそうだろうか。
村上隆は著書『芸術起業論』においてこう述べている。

しかけのある作品でないとなかなか認められないという美術界の構造はおそらく天才でない大半の芸術家のために生まれたのだと思います。歴史や民俗を取りこんだ作品制作はあざといことでしょうが、凡人には必要な試行の過程なのです。

(P105)

村上もまたスーパーフラットという概念で歴史性を標榜するが、その手つきは屈折している。歴史は「アートはゲームである」としながらそのゲームボードに介入しようとする“あえて”のポーズであり、自分はマチスのような天才にはなれないから文脈に従うのだと。これは磯崎が「無根拠である」としながらデザインの取っ掛かりとして「漢字」を利用するのとよく似ている。いわば根拠を捏造(ねつぞう)する人々。これがもう一方の側だ。彼らは「本物」の困難さをよく理解しており、いわば取り得る可能な手段を駆使してベターを目指す立場といえる(詐欺をはたらいているのではない)。他にも「コミュニケーションは捏造するしかない(「捏造の技法」)」とする文芸批評家の坂上秋成や、本質の議論はとりあえず置いて、チェックシート的に設計を進める藤村龍至の超線形プロセスもこれにあたるだろう。

ただこう並べるとベタに“本物”のほうは思慮が足りないと思われるが、単純にそうも言えない。福嶋亮大は『神話が考える』において、論理に回収されないものとして宗教を挙げ、たとえばキリスト教は「処女懐胎」や「三位一体」などあらかじめパラドックス(矛盾)を抱え込むことによって超越性を強化しているとする。つまり論理を超えて信じられるかという踏み絵。これはイセ(伊勢神宮)の本質が隠されるのと同じ、つまり“本物”を志向する態度は思慮が足りないというより、決断主義的に「思慮しない」という選択なのだ。だから本物志向には宗教的な色がつきまとう(たとえば、セカイ系とかも。もちろん大半のひとは単純に何も考えていないのだが)。杉本がベタになのかあえてなのか、断定はできないが、彼はインタビューで「まず作品があり、結果的にそれをどうプレゼンしたらよいか考える」という趣旨の発言をしていて、また“捏造”の側である村上も杉本について、欧米で渉りあうなかでよくやっていると評価している。その意味で本物/捏造というのも単純には言えないのだ。


雰囲気はあとから分からない
GEISAI大学放課後 01 4月16日「やはりカオスラウンジとは何か?」


何を考えているかというと「カオス*ラウンジ」のことです。この展示は現象として発生したムーブメントを藤城嘘がまとめ、黒瀬陽平が理論づけた。――しかし感覚的に現象を理解できない世代からケチがついて、↑みたいなことになった。
この展示会の評価は僕の中でも定まってなくて、理由は1つは単純に「芸術ってよく分からないな」っていう苦手意識。わりとアートに興味があって、積極的にいろいろ観てきたほうだと思うけど、未だに自分独自で評価を下すのは気が引ける(好き嫌いは言えるけど)。そもそも村上隆や東浩紀が「本物(アウラ)なんてない」と言いながら、ときに本質主義的な執着を見せるのも素朴によくわからないな、と思う。この世に本物はあるのないの?どっち?

もう1つは僕がムーブメントの中にいないこと。同世代なのでなんとなく共感はできるけれども、僕は彼らのようにコミュニケーションとして絵を描くタイプではないし、クラブも行きたいけどそういう友達が少なくてたまにしか行けない。きっと模造紙オフとか入れたら超楽しいだろうなぁと思うのですが…(そんなこと言いつつ微妙に関わってたりするのだけど)。ようするに「雰囲気はあとから分からないよね」ということなのです。強度を体験した人には言葉なんていらないんでしょうが、外の者にはノリきらない部分もある。たぶんそれはほかの“本物”もそうだと思う。杉本の作品を生で見たら「やっぱすげぇ!」と思うだろうし、伊勢の儀式を体験したら神聖を感じるだろうし、救いを求める人にとってキリスト教の教えは本当にありがたいのだと思う。…ただ、その雰囲気を根拠付けるものは結局自分の内面にしかないのかなと思う。

まぁでも、カオス*ラウンジに関してはそれでいいのかなと思っている。
藤村龍至はTwitterでこう呟いている。

後半やや反省モードだったが、僕がカオスラウンジに伝えたいことは、何度も同じ企画を反復し、批判を吸収しつつヴァージョンアップすればよい、ということにつきる。繰り返せば「で、何なの?」という質問はやがて消えて行く。

http://twitter.com/ryuji_fujimura/statuses/11996508979

繰り返せば批判は消えていくというのは、僕の解釈では式年遷宮を繰り返すイセの態度と同じだ。カオス*ラウンジはいまだ生の強度を残しつつ、黒瀬によって歴史を捏造されたちょうど本物/捏造の中間の存在。だから評価はまだ定まっていない。


歴史はコミュニケーション
また同じく中間的な存在として、僕は柳田國男の『遠野物語』が挙げられると思う。福嶋の『神話が考える』によれば、『遠野物語』は遠野地方の民俗伝承を伝えると同時に、当時の都会の現代的な都市伝説のたぐいも織り交ぜられていた。これは歴史と現代を交差させる「神話」作用であり、歴史の捏造=二次創作である。21世紀の現代人(僕とか)にとってベタに消費されている『遠野物語』にネタの視線が入っていたのは面白い。同様にカオス*ラウンジが日本美術史を二次創作し、アートのベタになってくれればいいと思う。

また、歴史の二次創作といえばもちろん東方Projectだが、この議論であれについてもようやく自分の中で整理がついてきたと思う。東方は『遠野物語』同様、昔話×萌えの「神話」作用によって捏造されたレプリカである。イセの議論を思い出してほしいが、レプリカはより時代の実情に合うように、更新のたびに少しずつ改変された。東方も同様に、お話としては死に体だった日本昔ばなしを柳田的手法で更新し、コミュニケーションの水準まで押し上げた“本物”なのではないだろうか。
そしてこのレプリカ(捏造)というのはおそらく、作成されることによってコミュニケーションを促進する作用を本質的に持っている。それはたとえば、大河ドラマの物語はフィクションだが、どの登場人物(レプリカ)をフィーチャーするかによって『篤姫』『龍馬伝』『坂の上の雲』と多様な物語を作り出し、同時にそれが幕末~戦前史という相互補完的なネットワークを作り出す。それによって、はじめて歴史がコミュニケーション可能なネタとして参照可能になる。つまり「高杉晋作はこんなヤツだ」というのはフィクションによって体感され得るし、龍馬や篤姫の話をしているようで、実際は福山雅治や宮崎あおいが演じるレプリカの話をしているということである。

ところで、福嶋は「神話はアルゴリズムだ」と述べているが、神話=捏造と捉えれば、これに対応して「歴史(本物)はコミュニケーションだ」と言えるだろう。ならば締めの言葉はこれしかない。

「歴史は考えない」

  1. 2010/06/10(木) 15:39:00|
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