Perfume『シークレット・シークレット』 the deconstruKction of right 「本当のキミを知りたい」と、切なくこのパフュームのアイドルに思うのだが、それは人工的で作り物であるからこそ「本当」への欲望が加速するのだろうが、「切なさ」の正体が、案外、消費社会に消費され、規律訓練を受け、あっという間に年をとり可憐ではなくなると言う少女の身体性に依存しているところが随分と馬鹿馬鹿しい気がするのだ。「本当」への志向を、アイドルへの欲望と、消費に向かわせると言うことで、マーケティング的にこれは非常に上手いとは思うのだが、その「消費」の回路こそが外部を閉ざすと言うことに無自覚、もしくは意図的に罠を掛けている。どちらかというと僕は「リアリティ・スタジオを急襲せよ」(マキャフリィ)と言いたくなる。本当を志向するが故に本当に永久に辿り着かなくなるという無限の罠がここに仕掛けられている。そもそも、一体どうすれば「本当のキミを知った」ことになるのか。アイドルと同じ時間・空間を共有したらか。手記を読んだらか。ブログを読んだらか。一緒に飲んだらか。付き合ったらか。セックスしたらか。セックスという「外部」は本当に外部で、「本当」なのか。
元記事の方の主張は
「だから僕はPerfumeに乗れない」という話なのですが、僕はまったく逆の話として受け取りました。ちょっと長めに引用してしまい申し訳ないのですが、↑のくだりを読んで僕はますますPerfumeが好きになってしまった。僕の中で長澤まさみのピークが映画『タッチ』だったように、Perfumeのピークは「エレクトロ・ワールド」と偶像に成りきれなかった不遇なアイドルのメイクドラマという彼女たち自身の物語であって、もはやそれは彼女たちがスターダムに乗ったことによって終わりつつあるのですが、それすらも含めてある種の
「切なさ」や
「萌え」を醸し出している、ということに気づいた。
ようするに、彼女たちもきっとだんだん芸能人じみて汚れてくだろうし、あーちゃんの愛らしい性格ものっちの端正な顔もいつかは歪んでしまうのだろうけれども、
だからこそ今のPerfumeがすごく愛しいということですね。naoya_fujitaさんはそこに興味が無いということなんだけど、オタクな僕にとってはそれは正しくゼロ年代の後期セカイ系の文脈に則っている気がして、重視したいわけです。たぶんこれは最近話題の『かんなぎ』の処女性にまつわる問題と根が同じ気がする。さしずめ「大人への階段2.0」ですね。
「ポップカルチャー・テロリスト」 さて、そういうリアリティ・スタジオを強襲する、「ポップカルチャー・テロリスト」なるものが必要になってくるとすると(そう思うこと自体が作られているという批判はアリ)、先日の東工大の突撃事件は「実在」に至ろうとするポップカルチャー・テロリストであり、トリックスターだったのでしょうか。
「リアリティ・スタジオ」と「ポップカルチャー・テロリスト」の意味を知らないので、ちゃんと理解できているかは心許ないですが、naoya_fujitaさんの論旨を辿るなら、ようするに
Perfumeの歌うような作り物っぽい(書割り的)世界観に切なさを感じるのではなく、そういうジャンクなポップカルチャーで遊びながらノリノリで作り物くさい世界をぶっ壊せよ、政治運動とかしろよということなんでしょうか。それに賛成するのかはここではひとまず置きますが、個人的にこの
ポップカルチャー・テロリストという言葉にはすごく惹かれますね。イメージ的にPerfumeや初音ミク、ニコニコ動画にコードギアスにブログ論壇に秋葉原殺人事件まで、そういうものをすべて「既存のリアリティを打ち崩すもの」として内包できる言葉という気がする。たとえば非正規雇用やニートとして、現実から疎外されているがゆえにポップカルチャーに逃避しているのが僕ら若者だと見れば、「ポップカルチャー・テロリストになれよ!」という言葉はすごく魅力的に聞こえる。重ねて言いますが、僕は鈴木謙介の『サブカル・ニッポンの新自由主義』を読んだこともあって、それが正しいのかは分からないのですが。
ただ、話はそれますが、僕がいま描いてる漫画のテーマがまさにこのポップカルチャー・テロリストなんだということにこれを読んで気づいた。最近よく書いているように、少年ジャンプの漫画や学園異能モノの物語が「リアル」を全然描けていなくて、それに対して救われない一部の読者層が不満を抱えているんじゃないかと僕は感じていて、その不満をテンプレへの「終わりなき日常」の介入――具体的には『プラネットガーディアン』のような
“邪道魔法少女モノ”――として描こうとしているんですが、「邪道魔法少女」というのはあくまで“邪道”じゃない魔法少女を想定した、漫画・アニメ的想像力の中で循環してるラベリングなわけです。――でもそうじゃなく、「これはポップカルチャー・テロリストものなんだ」と考えれば、もっと現実の若者問題とかネット文化の中で翻弄される人間像とか、あるいは上遠野浩平の『ブギーポップ』シリーズから続く後期セカイ系の想像力としても捉えることができて、もっと広い視野を持つ作品になる気がしたんですね。その意味でこの言葉はナイスネーミングだと思う。
ググってもあんまりヒットしないんですが、この方の造語なのかな。
僕も使おう。
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