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『写真とことば』とスターとタコツボ

写真はことばと比較すると、より過剰で多義的な「記号」といえる。ことばで描写するその先から意味があふれ出してきて、それらをすべてすくい取るのは不可能なのだ。
(中略)ところが、この仕事を続けているうちに、とても奇妙な事に気づいた。写真とことばを同時に、しかも両方とも高度に練り上げられた形で使っている人たちがいるのだ。それは、他ならぬ、写真を撮影し、発表することを業にしている写真家たちである。


写真とことば―写真家二十五人、かく語りき (集英社新書)写真とことば―写真家二十五人、かく語りき (集英社新書)
(2003/01)
飯沢 耕太郎

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飯沢耕太郎は写真評論家であり、いわば「タコツボの呪術者(シャーマン)」だ。彼の「ことば」はあくまで写真愛好家にだけ向けられた内向的なもので、その外にいる者には届かない――。
僕がそう考えるのは、彼が無条件に「写真には固有の力がある」と主張しその特権性を省みないからで――まぁそういうのは建築にしろオタクにしろ、タコツボのシャーマンにはよくあることなんだけど――それをあえて意地悪くここで吊るし上げるのは、まだ僕が写真初心者で、写真を「分かりたい」と思う反面、「べつに分かんなくてもいいじゃねーか」と半ば開き直るフクザツな心境だからw


本人が自作について言及するのは分かる
この本は写真“評論”家である飯沢が、歴代の日本を代表する写真家たちの文章を引用し、それを解説していくという趣旨だ。その意図は上の引用にあるように「写真とことばを同時に、しかも両方とも高度に駆使している」写真家がいる、ようするに「写真家が写真について言及する文章は得るものが多くて面白い」という発見からだ。
それについては僕も納得する。
飯沢も書いているように、写真家本人が自作について言及するのはそう難しくはないだろうと思う。それは写真家が人間であるかぎり、その思考はあくまで言語ベースであり、感覚的な要素はあるにしろ、大まかには作品の意図はロジカルに説明可能だと考えるから。僕は写真はそれほど詳しくないけど、たぶんこの感覚は多かれ少なかれクリエイティブな活動には共通じゃないかと思う。
絵にしろ音楽にしろ、作り手は何かしらのヒラメキがあってその作品を作っているのだろうし、そのヒラメキをロジカルに強化するのはまず間違いなく言葉だろう。とすれば、すぐれた作品の作り手は必然的によい文章の書き手である、という論法が成り立つ。他者である飯沢が論ずるよりも、より作品に迫った論が作者から出てくるのはある意味当然といえる。
飯沢はこれを中田やイチローを引き合いに出して説明しているが、ようするに写真家というのはスポーツ選手と同様、感覚的な「写真」というものを、「ことば」というロジカルなものに引き寄せて考える訓練を絶えず続けている人たちなのだろう。

…それはいい。ただ、僕がこの本を読んで思ったのは「じゃあ“よい写真”って何よ?」ってことなんだよね。


表現の手法として「アリ」でも、それが「作者」に還元されるのは許せない。
森山大道の引用より。

僕は歩きながら、そして自動車のガラス越しに、ひっきりなしにシャッターを押しつづけているわけだから、いちいちピントを合わせたり、構図を決めたり出来るはずもない。露出もほとんどバラバラだし、現像を終えたフィルムを見るまでは、自分にも一体なにが写っているのか、さっぱり見当がつかない。そして、結果的に出来上がった写真は、ブレて、ボケて、荒れて、ゆがんで、さながら悪しき写真のサンプルのようになってしまう。しかし、よく考えてみると、人間は一日中、それこそ無数の映像(イメージ)を知覚しているわけだが、その全部の像に対して必ずしも焦点が合っているわけでもない。時にはボケて見えたり、時にはにじんで見えたりもするわけである。
(森山大道「主観的スナップ」)


僕でも名前は知ってるくらい有名な森山だが、飯沢によれば彼は「ブレボケ写真」という汚い写真によって一躍有名になった。そしてなぜそんな写真を撮ったかといえば「写真は美しく」というテーゼに疑問を感じた、とかまあ話は理解できるんだけど、問題だと思うのは「じゃあ、森山が“あえて”下手くそに撮った写真と、ほんとうに下手くそなヤツの写真はいったい何が違うの?」ってことなんだよね。少なくとも撮影方法自体は大差ない気がするんだけど。


“表現”なるくだらないもの
いくら表現的に新しくて、論理構成的に筋が通っているとしても、結局その表現が「森山大道」という個人に還元されてしまうことに僕は芸術の限界を感じる。具体的にいえば、僕は最近賃金格差に興味があるのであらゆることをわざと意地悪くカネに換算して考えるんだけど、同じような汚い写真を撮っているのに、森山だけがシロウトと区別されて作品が高値で取引される意味が分からない。分からなくもないがくだらない。…あるいは、そこまで含めて「世界は醜悪」なのか。だとしたら、それって遠回しに自分の作品すら「何の意味もありませんよ」って言っていることに当時の森山は気づいていたんだろうか?

だから、最初の問題意識に戻ると僕は写真について「分かりたい」と思うし、ある意味この本によってたしかにちょっと理解できたんだけど、その反面「ホントにそれは本当なのか」とかなり疑わしく感じる。なぜならそれはスターシステムによって支えられるアーティストの集金体質そのものが疑わしいということもあれば、そのポジションから発せられる言動が全く相対化されないで「写真には特別な力があるんですよ」とか言ってんのはかなりヤバイんじゃないかと思うんですよね。


「音楽は世界を平和にするんだ」「映画ってほんとうに素晴らしいですね」「建築を作ることは未来を作ることである」「『CLANNAD』は人生」etc…。
最近思うんですけど、こういうタコツボの言動の是非はともかく、これらが生み出す搾取構造とスターシステムはぶっ壊したほうがいいと思いますね、本当…w


関連記事:Mr.の絵の価値を考える。
関連記事:島宇宙化と建築 『私たちが住みたい都市』
  1. 2008/06/05(木) 22:01:24|
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