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At Tokyo, from Tokyo. 『東京から考える』

東浩紀 おそらく、東京という総体について思想的に語るなんてことは、もはや不可能だし無意味なんですね。けれども、他方で、いまも東京が生きて動いていることも事実で、それについて何か語りたいような気もする。そこでいかにも中途半端に出てきたのが、本書のタイトル、「東京から考える」の「から」なんでしょう(笑)。


東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス 1074)東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス 1074)
(2007/01)
東 浩紀、北田 暁大 他

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東浩紀・北田暁大が「東京圏生まれ」という自分の生い立ちから振り返って見る“東京”論。東京というのは日本の中でも特異点だし、インターナショナルな視点でもエッジだというのは、僕も地方出身者なので何となく肌で感じる。この都市がハードウェアはともかくソフトウェア的にはたいへん先鋭的で、東京でのとある事象――たとえばヒルズ族やオタク――を取り上げれば、自然それが現代社会の抱える問題につながっているという点で、東京は「学」が成立するほど懐が深いし、「ファスト風土」で一蹴できる地方より面白い都市だと言えると思う。三浦展の『下流社会』や森川嘉一郎『趣都の誕生』もそうだけど、この『東京から考える』もそうした東京の威を借りた本の1つといえる。テーマ的にも三浦展、森川嘉一郎を受けて企図された印象が強い。東の活動でいえば、こうした意識は「ギートステイト」なんかに繋がっているように思う。

この本では大まかに、都市の在り方を「広告都市」的なものと「ファスト風土」的なものに分類しています。「広告都市」はパルコによってプロモーションされた80年代渋谷のような、実質はともかく“○○の街”というブランディングが浸透している街のことで、ほかに東急田園都市線沿線の“マダムの街(本当の金持ちではない)”青葉台などが挙げられています。別の言い方でいえばシミュラークル、テーマパーク的な、共同幻想性の強い街のこと。本来の意味でのニュータウンや、歴史的街並みもそうです。一方「ファスト風土」とは、三浦展が言うような利便性と標準化が過剰になり、国道16号線に顕著なような、どこまで行っても同じような家と道路と車とショッピングセンター(ジャスコ)に覆われた極端に流動的な街並みのことで、実情としてのニュータウンや全国の駅前再開発などがこれに当たります。通して読むと東・北田はこの分類を用いて、東京という都市がシミュラークルとファスト風土の巨大な集積であることを検証していて、同時にポストモダンな状況では総体としての「東京」に実体はなく、語ることは不可能であると指摘しています。

僕が東浩紀を面白いと思うのは、この分類の仕方が「嘘」と「夢も希望もない」という2択だけで、ハナから「本物」なんて期待してないところなんですよね。本を読むかぎり、北田暁大はもう少し感傷的で含みを持たせているので、これはたぶん東の文脈だと思うんですが。いろいろ彼を見ていると、この「本物はない」というのがどうも彼の根本原理な気がするんですよね、キッパリ割り切るところとか、工学的な関心とか。…まあ、僕のいる建築分野がとりわけウダウダしてるだけで、社会学の分野では普通なのかも知れませんがw 宮台真司とかも「再帰的近代」とか言ってたし。

またこの本の中で景観論者の松原隆一郎の名前が挙がっているんですが、要するに松原的な意見が、都市に対する建築サイドからの一般的な見解なんだという気はする。篠原一男からつながる「カオス東京」的な東京擁護、「広告郊外」は肯定で「ファスト風土ニュータウン」は否定――という。ただコイツらのいう東京はオシャレな西側であって、殺伐とした東側じゃないんですよね、そのへん「カオス東京」と「広告郊外」は区別されてない。日本の現代建築は何だかんだ言って「歴史」という物語性を忌避するのですが(「尊重」という名の断絶)、戦後以降の身近な歴史性には無自覚に従順だったりする。このミーハーさはどうかと思うんだけど…。

だから東浩紀がこの本で「要するに“魅力ある街”とは若者の街ですよね」とバッサリ斬ってくれたときは「やったー!\(^o^)/」って気分でしたよ(笑)三浦展や建築が理想と掲げる下北沢や高円寺、代官山なんかの西側の街も所詮共同幻想で郊外ニュータウンと等価だと彼は言ってくれた訳です。まあ渋谷や秋葉原も同様なんですが…どうせすでにヒエラルキー高くないしw とにかく僕としては「Save the 下北沢」とか叫ぶのもいいけど、自分たちの信じてるものが所詮虚構のテーマパークだとしっかり自覚してほしいわけですよ。自分のことを棚に上げて「テーマパーク(ニュータウン)」と言うと嘲笑う人がホント多いから。そこを自覚した上で「でもオレはこれが好きだから、守りたいんだ!」と言うならぜんぜん話が違うと思いますよ。

オタクとしての東浩紀もそうだし、うちの大学の先生とかもそうだったんですが、ベタに好きなものはもうどうしようもないと思うんですよ。ハタから見たら論理的におかしいんだけど、それ以前に好きだからどうしようもない、というか。…だって理屈なんて、好きでしょうがないものを弁護するために後からでっち上げた口実でしょ。そこに意味なんて無いわけです(無いとバレてもヤバイのですがw)。ただ、メタ議論を無視するわけにもいかないから(でないと自分と逆に「生理的に受け付けない人」に差別される)、趣味人はそれに戦って勝たなきゃならない。だから下北沢とかも歴史とかもっともそうに言う。けど外野には、むしろそれが鼻につくんですよね。難しい…。

東方文花帖 ~ Bohemian Archive in Japanese Red東方文花帖 ~ Bohemian Archive in Japanese Red
(2005/08/11)
書籍編集部

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たとえば、「東方シリーズ」という同人ゲーム作品がありますが、アレなんかは明らかに趣味コンテクスト(文脈)への引きこもりでしょう。この作品は露骨に『かぐや姫』なんかのさまざまな童話のパクリで構成されているんですが、東浩紀の言うデータベースそのものなので、意味的な必然性はなく完璧に切れてる。でも作者や二次創作で盛り上がる人たちに「パクリじゃないか」と言っても痛くも痒くもないし、まったく意味がない。だって魔法とか大好きだし、子供の頃に空想したようなごった煮リミックス感も大好きだし、それに⑨萌えだからw 「意味なんて喪失してるけど好きなんだもん、ほっといて」というのが、ファン内で暗黙に共有される“日本のどこかにあるという幻想郷”の世界観です。たしか長野の山奥だったと思いますが、こういう感覚はむしろきわめて東京的だと思う(作品自体にそういうメッセージ性は無いですよ?)。

そういうのはゴスロリやコアな音楽ファンもそうでしょうし、青葉台の監視社会も絵に描いたような成城のマダムもオウム真理教もある意味そうだと思うんですが、誤解を恐れずに言えば、それらは外部との応答でキモくなるけど、別にそれ固有でキモイわけじゃない(コミュ力が無いのは困るけど)。だから我が身を省みて思うんですが、僕はオタクももっと自分の趣味に胸張ってればいいと思うんですよ。“非モテ”の裏返しの純愛・ユートピア志向、いいじゃないですか、別に。悪いことじゃないでしょ。ただ、だから逆にそういうふうに自己実現しようとはせずに、同類で馴れ合って、萌えに耽溺するような風潮にはどうも賛成できないところがありますよね、それが癒しと言われればそれまでですが…。だって僕らが本当に望んでるのは、キレイな街で、暖かい家族がいて、純粋に恋して…っていう至極広告郊外的な風景(『とらハ』的な)じゃないですか?それがテーマパークだろうが何だろうが、僕(ら)はそこに居たい、信じたい。決して「エロ同人誌に埋もれて暮らし、メイドカフェで散財…」というのが望みじゃないハズだ!…そういう意味では、僕は分類上ライトなオタクですけど、精神性は過激というか、もうどうしようもなくオタクなんだな、と最近思う…orz

余談ですが最近、伊賀大介に触発されてネルシャツ(あのチェックのヤツ)に目覚めたり…。だってこれは僕らの民族衣装ですよ?そこらのにわかB系よりよっぽど歴史性ありますよ(笑)

飛躍しますが、僕は崩壊した会社共同体に代わる中間集団、職能集団としてのテーマパークを志向しているわけですよ。まさか東浩紀がこんなに「テーマパーク」を連呼してたとは正直ショックですが(自分が言い出した概念だと思っていたので…(泣))、要するにそういうことですよ。だって好きなんだもん。好きなもの(だけ)に囲まれて、好きなことをして、好きな“神”を信じて生きたいじゃないですか。それに「自分の好きなことを仕事にしろ」って言われてたじゃん?なのに現実にはそういうふうに出来てないわけですよ。日本型経営もバラ色の郊外幻想も終わってんのに、いまだにサラリーマン以外のライフプランなんて無いわけですよ。毎日スシ詰めの山手線に揺られて、しかも同じ電車にはやかましい学生やゴスロリ少女までいて…いったいどんなテーマパークだよ?と思いますよ。要素の囲い込みすら出来てねーじゃねぇか、というかそれ以前に誰が望んだんだこんな社会!…とかね。まあ、資本主義社会は金さえ積めばあらゆることが体験できる、上位概念のテーマパークと言えなくもないですが…。


余談。
物語を作るうえで「広告郊外」と「ファスト風土」の差異には扱い上注意を払う必要があると思う。いまパッと思いつく範囲で広告郊外的な舞台を描く作品としては、minoriの一連のゲームが挙げられると思う。この間アニメをやっていた『ef』では、作品の舞台である音羽はかつて震災と大火に見舞われ、廃墟の上にヨーロッパ的なフィクショナルな街が再建された、とされる(郊外には爪跡が残る)。『Wind』ではネタバレになってしまうが、路面電車の走る広告郊外的な街は、実はあるひとりの少女の空想であり、街を出ようとすると物語りが終わり、消える。『BITTERSWEET FOOLS』では、制作に携わった相田裕の漫画作品『GUNSLINGER GIRL』のパラレルワールドとでも言えるような、フィレンツェでの暖かい日々が綴られる(僕はこの作品が大好き)。
一方「ファスト風土」を描いた作品としては、アニメの『serial experiments lain』が挙げられる。主人公玲音の目に映る現実世界は、電線が張り巡らされ、家庭からストリートに至るまでウソ社会的で、汚らわしく、彼女は嫌悪感を露わにしている。そしてネット世界(ワイヤード)に精神的比重を移してゆく。

対比をして思ったのだけど、当然だが同じ「郊外」でもその人の周囲の状況によって受ける印象はまったく異なるだろう。要するに周囲でテーマパーク的な妄想が機能しているか、いないかで、現実に16号線如何に関わらず広告郊外になったりファスト風土になる、ということはあると思う。だから三浦展的な「ファスト風土=凶悪殺人」というのは起こってしまえばどこでも言えるわけで、ズルイなあと思う(まったくウソとは思わないが)。暗い話を描きたいならファスト風土で、明るい話を描きたいなら広告郊外に勝手になる、ということだ。ただし、広告郊外的な作品でもベタに消費されることは少なくて、minoriにしても葉鍵にしてもはかなさを秘めた存在として描いている。

また、東の言うようにプロパの意図とは全く別に消費されてしまうというのはよくあることで、「地方」や「子供」なんかが典型なんだけど、もしかするとベタに広告郊外を生きている人にファスト風土的な作品を観せるのは、描き方によってはその人を不幸にしてしまうんじゃないかなぁ、とも思った。宮台真司が「分からない人に無理に教えると不幸になる」と言っていたし。ただ、誤配によって文化が回っている側面があるのもまた事実だろうなぁ…(例:非モテにおける『恋空』読解)。

関連記事:「ファスト風土化する日本」 全ての理想は、現実の前に屈服する


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