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ピースボートに学ぶ承認の箱舟の行方『希望難民ご一行様』

「目的性」のない「共同性」だけのコミュニティ。これって何かに似てないだろうか。そう、ムラである。ムラには、生活を共にするとか、いざという時は助け合うとか、そういう意味での目的はあるが、社会的ミッションのようなものはない。
 このような目的のない血縁や地縁をもとにした集団を、古典的な社会学では「コミュニティ」と呼んだ。

(P254)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)
(2010/08/17)
古市 憲寿、本田 由紀 他

商品詳細を見る

 フレッシュな若手の社会学者、古市憲寿のデビュー作。対象に深くコミットしながら突き放して冷静に観察し、かつその結論に対して拘らず軽やかに流してしまうエリート臭漂う論考です。
 この本が調査対象としたのは、格安で世界一周のクルージングを提供する「ピースボート」。古市は自らこの100日ほどの航海に乗り込み、体験やクルーズのメンバーとの交流を基に論を編んでいます。1000人もの目的を一にする集団に対して密着調査を行なったレポートとして、また航海中の現代社会の縮図とも言えるような興味深い出来事の報告として、価値のある内容だと言えるでしょう。


若者の4類型
 古市によれば、ピースボート参加者の構成は大きく若者と年配者に2分されます。注目すべきは、彼がこのうち若者層の性格についてアンケートを元に性格類型を行なった4象限分類です。

 110923.png

 この分類は、ピースボートの雰囲気に馴染めているかという「共同性」と、ピースボートの掲げる左翼的な理念に共鳴しているかという「目的性(政治性)」を2軸とし、それへの度合いによって若者を4タイプに分けます。

 「セカイ型」は素朴にピースボートの理念を信じ、クルーズに深くコミットしているタイプで、ピースボートの恒例である「憲法9条ダンス」を踊る若者などがこれに該当します。
 「文化祭型」は政治への関心は薄いがピースボートの雰囲気や活動には好意的なタイプで、航海中毎日のように行なわれていた船内イベントに積極的に参加します。
 「自分探し型」はピースボートの政治理念には共感するが共同性にはコミットしないタイプで、もっと真面目に社会について考えている若者たちです。古市がこれを「自分探し型」と名付けたのは、小熊英二が学生運動の政治性を「自分探しの一環だった」としたことに由来します。
 「観光型」はピースボートの共同性にも政治理念にも共感せず、普通の観光旅行を目的としていたタイプです。

 このような性格類型が、航海中に起こる出来事に対して分かりやすく異なった反応を返します。


ナショナリズムと癒し

「近代」から「現代」の過渡期にあって、「自分とは何だ」というアイデンティティ・クライシスに初めて集団的に見舞われたのが1960年代末の若者たちであった。だが彼らは自分たちが何を求めているのか言葉にすることはできなかった。そこで若者たちは自己のアイデンティティの確立を求めて「反抗」を開始した、というのが小熊の分析である。

(P60)

 古市がピースボートとの比較で挙げているのが小熊英二の『1968』と、90年代の「新しい歴史教科書をつくる会」的なぷちナショナリズムです。小熊によれば、戦後の貧困や飢饉といった「近代的不幸」が一段落した60年代に若者の政治運動が盛んになったのは、その時代の若者が近代の成熟に伴い、はじめて「現代的不幸」に直面したからだといいます。現代的不幸とは、社会の成熟と流動化に伴い、人々が今で言う「メンタルヘルス」「自己啓発」などの内面的な問題を抱えるようになったということです。それは要するに近代化の徹底がもたらす必然でしたが、当時の若者たちにとってはその閉塞感がどこから来るのかよく分からなかった。そのため若者たちは自分の憂鬱の原因を外部――すなわち政治の不徹底――に求め、政治運動を展開したというのです。
 そして本来ならば左右立場が逆である90年代の「つくる会」もこの延長でとらえます。つまり、近代の徹底によって従来の共同体が崩壊し、自分を保証してくれる承認が欠如する中で、「歴史」「日本」という居場所を虚構的に捏造することで、癒しを得ようとしたというのです。こうした論法についてはこのブログでもたびたび指摘しています。

関連記事:歴史と捏造
関連記事:カオス*ラウンジは日本現代美術の優等生であり、pixivは悪い場所の現在形であること。

 古市はこうした「現代的不幸」に端を発する政治運動と、自分探しやバックパッカーの元祖であるヒッピームーブメントは同根であるとして、ピースボートへの接続を図ります。ピースボートは83年の「『日本のアジア侵略』を『進出』と書き換え、被害国の人々が抗議した」とされる教科書問題に端を発し、設立メンバーに現社民党の辻元清美が名を連ねるなど正しく左翼的な団体ですが、古市によればその内実は癒しとなったナショナリズム同様、カジュアル化していると言います。しかし90年代の「つくる会」と00年代末のピースボートには、わずかな差異がある。それは小熊が指摘する「心」「生きてない実感」「アイデンティティ」といった内面の問題を、社会や政治と切り離して論じる慣習や言説が浸透したことに関係しているのではないかと彼は考えます。


無邪気なセカイ

ピースボートの若者の語りからは、「右翼」を非難するような声はあまり聞かれない。「つくる会」に集う人びとがアイデンティティの不安を「サヨク」の忌避という外部に求めるのに対して、「セカイ型」の若者たちはその答えを自分たちの内面に求めようとする。(略)だからこそ「自分が変わればすべてが変わる」(ヒロ、27歳、♂)という発想を抱きうるのである。

(P192)

 サブカルチャーではよく言われるように「きみとぼく」の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のことを「セカイ系」と呼びますが、古市の性格類型における「セカイ型」はこのことを示唆しています。つまり、自分――社会――世界という関係のなかで社会を消去したセカイ系と、内面の問題を社会や政治と切り離して考え、「自分が変わればすべてが変わる」とするセカイ型の若者の思考はオーバーラップしています。そこでは全共闘の活動家が「自分の日常性が、このろくでもない体制を支えている」と語った社会との連関の意識は消失しており、むしろ古市も触れているようにニューエイジ的な「気づき」の文脈で捉えるのが妥当でしょう。こうした内面の思考は学生運動やつくる会のように敵を設定しませんが、そのかわり実効性もありません。環境問題や世界への意識が高い若者たちが、反面世界からの情報が遮断された長期間の船上生活に耐えられるというパラドックスが成り立つのは、彼らが社会を消去した自分の延長として世界を捉えているからでしょう。古市によれば彼らの国際理解力は高くありません。この点について彼は突き放しています。

 ピースボートは実際に世界各地の「場所」を巡るはずなのに、若者たちはその土地の歴史や環境という固有性になかなか目を向けることはない。ピースボートに乗る若者たちの語る「世界」はあくまでも「世界」であり、各寄港地は「生きる実感」を得るための「背景」として受容されているに過ぎないのである。
 ベトナムへ行っても、ヨルダンへ行っても、アメリカへ行っても、「世界」が「世界」以上に分割されることはない。

(P200)


承認の共同体

 9条ダンスを踊る若者たちに、もしも戦争が起こったらという仮定の話をすると、「考えたくない」と答える人が多い。リカ(23歳、♀)は「どうしよう」と悩んだ後に、「人が死んでも武力でやり返そうとしてはいけないと思う。また同じことをするのは嫌だからぐっとこらえる。そうしたらわかってもらえる」と答えてくれた。
 彼らに共通するのは、「想い」さえ通じ合えば「わかってくれる」という期待である。そこに「想い」を共有しない他者の存在は想定されないし、だから他者との合意形成の過程も想定されない。この「想い」によって理念が実現するというのがピースボートの考え方なのである。
「世界平和」も自分たちで形成していくものというよりは、他動的に実現されると思っている人が多い。

(P201)

 このような雰囲気の船内で事件が起こった。ピースボートのもう1つの参加層である熟年世代が、度重なるトラブルによって寄港地での予定が大幅に削られたことに対し不満の声を顕わにしたのだ。彼らは奇しくもちょうど熟年リタイアを迎えた団塊世代であり、ピースボート側に対し責任を追及し、訴訟の構えを見せた。これに対しピースボート側も「名誉毀損である」として高圧的な態度をとり、批判的な内容のアンケートを妨害するなどした。
 運営側と年配者の関係が悪化する中、「セカイ型」を中心とする若者層がとった態度は年配者への批判だったという。両者の対立を「夫婦げんかを見ているようで悲しい」と嘆き、一触即発の際には多くの若者が泣き崩れすらしたという。「文化祭型」の若者も「みんなが楽しくやっている雰囲気をどうして壊そうとするのか」として年配者を非難し、運営側の肩を持った。

 こうした点に「内面と社会を切り離して考える」昨今の若者の特徴が出ていると古市は指摘する。何度もピースボート側と対話を繰り返し待遇の改善を訴える年配者に対して、「想いが世界を変える」というニューソート思想の末裔である彼らは政治的なアクションによる感情の対立それ自体を嫌悪する。空気を読まないことは悪であり、「想い」が届かない相手に対しては対話や討議によって妥協点を見つけようとするのではなく、一方的に悲しんで終わってしまう。若者が年配者を呼んでの「討論会」は一度開かれたが、結局それは自分たちの「想い」を一方的にぶつける場になってしまい、討論としての機能は果たしていなかったという。これは論理や言葉でなく、感覚によって共同性を構築しているがゆえの、異質なものに対する不寛容さの顕れといえる。

「セカイ型」の若者たちは「憲法を守ろう」と踊りながら、Tさんたちにコピー機を使わせないピースボートに疑問を抱かず、むしろTさんたちに嫌悪感を抱く。それは自分たちの「感覚の共同体」を侵されたという意識を持つからと考えることができる。論理や言葉ではなく「感覚」でつながった関係性は、いくら強固に見えても不安定で脆弱なつながりである(Sennett 1976=1991、土井 2003)。なぜなら言語的な観念を媒介しておらず、内発的な衝動や感覚に基づいた関係には、演技空間という弛緩地帯が存在しないからだ。
 だから自分の振る舞いに対して非難が加えられるとそれは儀礼的な意味を一切持たずに、存在それ自体の否定と感じてしまう。ピースボートに同一化している彼らにとって、Tさんたちの抗議は、自分たちが否定されたのと同じ意味を持ってしまったのではないだろうか。

(P181)

 ここに左翼団体としてはじまったピースボートの政治性の希薄化、カジュアル化が指摘できます。つまり彼らにとっての「世界平和」とは叶うはずのない理想、曖昧な理念であり、共同性維持のための「ネタ」にすぎません。曖昧であり、叶わないからこそ共同性の維持が可能なのです。古市はアンケートから浮かび上がる若者像として、不確かな「自分らしさ」を補うために共同性に寄り添い、共同性に亀裂の入る可能性がある「勝ち負け」よりも「一緒に盛り上がる」ことを重視する、そして「一緒に盛り上がる」ためには自分というものは一貫していなくてもいい、という現代的な姿を提示しています。要するにここでは承認の欠如を埋めるために、「歴史」や「日本」の代わりとして「世界」が召喚されているのです。


ワールズエンド・ガーデンとノブレス・オブリージュ

「共同性」が「目的性」を「冷却」させてしまうのではないかというのが本書の仮説である。つまり、集団としてある目的のために頑張っているように見える人びとも、次第にそこが居場所化してしまい、当初の目的をあきらめてしまうのではないか、ということだ。

(P46)

 ピースボートから帰国した若者たちはルームシェアやホームパーティーなどを頻繁に開くようになり、帰国後もピースボートで得られた関係性を維持しているといいます。その一方で世界平和に対する興味は薄れ、憲法9条ダンスを踊っていたメンバー達もそういった話はしなくなったということです。それは冒頭で示したように承認の欠如を埋めるための「世界」という「目的性」が冷却され、成果物である「共同性」としてのコミュニティ=承認が残ったということでしょう。その意味でむしろ当初から目的は承認であり、それは達成されたのかも知れません。「承認の箱舟」が辿り着いたのは温々としたムラだったのです。

 古市が語るように、近代というのは本来ムラ的な地縁・血縁の共同性(コミュニティ)から、結社や企業などの目的性(アソシエーション)への移行期として期待されたはずでした。しかし実際にフタを開けてみれば、過剰流動性による「現代的不幸」によって承認の欠如に曝された若者たちは、目的性に寄り集うかに見えてその実無目的なムラを再構成したのです。ピースボートの若者たちが形作ったような現代の再帰的なコミュニティは、社会学の用語で「ポストモダン・コミュニティ」と呼ばれるそうです。近代の後に来たのはポストモダン(虚構)でした。

 余談ですが、こうした「目的性の冷却による共同性への着陸」というのはここ数年サブカルチャーで猫も杓子も言われているテーマであり、個人的にはやや食傷気味で昨今の同時代的な作品を敬遠しはじめています。たとえば岡田麿里がアニメの脚本を担当した『とらドラ!』はこの典型例であり、このタイプの作家である羽海野チカの物語には共同性によって目的性を包摂する限界を感じます。浅野いにおの作品が憂鬱なのは、この閉塞感をはっきり意識しながらも他に選択肢が無いからでしょう。

関連記事:岡田麿里脚本のノれなさについて ―アニメルカ、girl!、とらドラUST―

 こうした僕の意識に被るのが、「現代的不幸」を抱えながらピースボートの「共同性」にコミットできなかった「自分探し型」の若者です。ピースボートの目的性に失望してコミュニティと距離をとった彼らは、帰国後も自分探し=目的性を維持し続け、ワーキングホリデーなどに参加して自分探しのリターンマッチを繰り返しているといいます。古市は「セカイ型」が「冷却」を果たし、「自分探し型」がリターンマッチを行うという事実は、「現代的不幸」が社会的承認ではなく、「共同性」の提供する相互承認によって慰撫できるものであることを示しているとしますが、これにはやや異論があります。というのも古市の見方というのは「非リアだから政治運動なんかやっているんだ。共同性に落ち着くのが正解なんだ」という視線を暗黙のうちに含んでいるように思えるからです。しかしそう単純ではないことは古市も後述しています。

ピースボート帰国後の若者たちは、低賃金で不安定な労働に就いている人も多い。彼らは労働市場から見れば「良い駒」である。安いお金で働いてくれるし、しかも労働環境を変えようというユニオンなどに入る可能性もあまり考えられない。だって、仕事場の外にはピースボートで生まれた温かいコミュニティがあるのである。別に社会に不満を抱いている訳でもなく、日々幸せに過ごしている。
 体制側から見たら、こんなにいいことはない。「現代的不幸」を感じながら、勝手に200万程度のお金を払ってピースボートに乗り込み、コミュニティを自分たちで作り、安価な労働力として、反抗もせずに社会を支えてくれているのだから。「共同性」が「目的性」を冷却しムラができるだけなら、革命なんてのも起きそうにない。そう、「承認の共同体」は再配分の問題(経済的格差)を覆い隠すし、しかもなかなか政治運動へも発展しないのである。

(P263)

 要するに「承認の共同体」はそのまま貧困問題、やりがいの搾取につながっているのです。団塊世代のように交渉の余地を持たず、泣き崩れることしかできない彼らのコミュニティが持続的なのかは、本田由紀も指摘するように疑問を持たざるをえないでしょう。

 この本の発見を気取って書くと以下のようになる。
(1)「共同性」だけを軸にした「目的性」のない共同体が存在すること
(2)その「ポストモダン・コミュニティ」(Delanty 2003=2006)は社会統合の基礎にもなり得ないし、社会運動との接続性を担保するものではないこと
(3)それは承認の正義(Fraser 1997=2003)を担保する共同体ではあるものの、「目的性」の「冷却」によって経済的再配分を求める闘争に転化する訳ではないこと

(P264)

 ここにきて僕が思うのは、自分が見てきた数々のコミュニティ(アソシエーション)のことです。東浩紀クラスタ、カオス*ラウンジクラスタ、アンチカオスクラスタ、pixiv絵師クラスタ、建築クラスタ、keiちゃんクラスタ、隅の会。Twitterで数々のクラスタ(これはコミュニティよりさらに緩いですね)を観察してきましたが、そのすべからくにピースボート的な承認と目的性の問題がまとわりついているように思います。その中には高い理想を掲げるものもありますが、上記のような理由で僕はその達成には懐疑的です。否、そもそもメンバーがそれを本当に望んでいるのかという問題もあります。

そもそも正社員への道も閉ざされている非正規労働者や、企業社会の外で働く人に「やればできる」と言ったところで、彼らには「やるべきこと」がない。もちろん、英会話の勉強をしたり、ワーキングホリデーに行ったり、アートイベントを開いたり、起業を目指したり、自分を高めてくれるように見えることは、この消費社会にたくさん用意されている。
 だが、「その先」までは用意されていない。中途半端な語学力や芸術的スキルは、ほとんどの場合、就職やキャリアアップにつながらない。起業して成功できる人なんてほんの一握りだ。
 もちろん、彼らは「好きなこと」をやっている時点で自己責任だとも言えるだろう。でも、僕はその半分は社会の責任だと思う。蜘蛛の糸のような資格制度しか整備せず、みんなが夢見る仕事には宝くじを当てるような確率でしか就けないのに、「夢を持て」「夢をあきらめるな」「やればできる」だなんて。そもそも、まともなキャリアラダーがないために、「このままではいけない」と感じる若者たちが、やたら「海外志向」や「クリエイティヴ志向」になっている可能性もある。社会が、希望難民を生んでいるのである。

(P267)

 僕自身こうした希望難民の1人であるし、その意味でこうしたムーブメントや目的性には他人事じゃなく真剣に考えてきたつもりでした。必然僕のコミュニティに関わる姿勢というのは批判的になり、その結果ピースボートの「自分探し型」の若者と似た経路を辿ってきたと振り返れるように思います。おそらく僕や彼らはそれぞれの集団の標榜する理念のすばらしさを十分に理解しているでしょうが、同時にその達成の困難さも身をもって感じてもいます。僕はいまだに稼げていません。

 古市は「「居場所」にしか希望がない社会が健全だとはとても思えない」としつつも、それを変えるとしたらエリート主義しかないだろうと結論します。結局は烏合の衆でしかないコミュニティに目的性をインストールできるとすれば、それは統率するリーダーの意志しかない。つまりは「ノブレス・オブリージュ」です。

 ギャルサーを例に挙げたが、「共同性」を維持しながら「目的性」を失っていないように見える団体は多くの場合、冷静で聡明な(できれば「人間味」があって時に「お茶目」な)「エリート」が率いているように思える。彼らは「共同性」に甘んじることなく孤独な闘いを続けている。
 社会全体で見ても、運動体規模で見ても、共同体をただの「居場所」だと考えず、「目的性」の達成のためなら冷徹になれ、だけど対外的にはお茶目な「エリート」が、社会を変えていくしかないと思う。
 そもそも「あきらめろ」と言ったところで、やる人はやる。たとえ1人でも。

(P273)

 ここで思い出されるのがアニメ『東のエデン』の滝沢です。彼はリーダーでしたが、結局東雲のように冷徹にはなれず、ニートを切り捨ててエリート主義に走るということをしませんでした。そのため『東のエデン』という作品の目的性は冷却されて、共同性に堕してしまったように思います。あれは僕にはフィクションに見えません。

関連記事:ニート的なるもの 『東のエデン劇場版 I The King of Eden』

 僕自身はエリート主義には独断的な部分で批判もあり、あまり賛成しないのですが、かといって集合知の無責任さというのも救えないな、とこの本を読んで残念な気分になった次第です。まあ「自分探し型」としては、孤独に自分の成すべきことを成すしかないのかな、というのが個人的な落としどころですね。

 最後に解説の本田由紀の檄文から。

いろんな生き方があっていいし、どんな生き方であっても「絶対こうでなきゃ」とか思う必要はない。とにかく今を生き延びること。そのために必要なら、時にはあきらめたふりをし、時にはあきらめたくない何かに出会って追いかければいい。すべては途中なのだ。だから、とにかく使えるものは――目的性だろうが共同性だろうがセーフティネットだろうが――何でも使って、じたばたと生き延びること。そのためには、何が使えそうか、そのときそのときでもっとも使えるものは何か、ちらちら横目で見ながら選択肢の「溜め」(by湯浅誠)を作っておいたほうがいい。そしてもちろん、為政者を含めて「社会を良くしていく」責任を担うべき/担いたい者が、そうした選択肢の「溜め」を社会の中に整備してゆくことが必要なのだ。

(P305)
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