スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. Permlink|
  3. スポンサー広告|
  4. トラックバック(-)|
  5. コメント(-)|
  6. このエントリーを含むはてなブックマーク

『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(上)

ひさしぶりの更新になります。
さて、僕がこれまで考えてきた問題(物語論・キャラ論)については『ワールズエンド・ガーディアンズ』でひととおり片がついたので(本買ってください!http://tinyurl.com/6a5ns35)、これからは新しいことについて考えたいと思います。
新しいテーマは「女性性」「クリエイタードグマ」です。この2つは非論理的という意味でなかなか今までの論法では手を出せない分野でしたが(批評を嫌っている分野でもあります)、これまで考えてきたキャラ消費などを手がかりに掘り下げていきたいと思っています。

一発目の題材はアニメ『放浪息子』です。

放浪息子 1 [Blu-ray]放浪息子 1 [Blu-ray]
(2011/04/27)
畠山航輔、瀬戸麻沙美 他

商品詳細を見る

志村貴子の漫画が原作のこの作品は、「性倒錯」をテーマにした群像劇です。主人公の二鳥は“女の子になりたい男の子”であり、彼の恋人である“男の子になりたい女の子”の高槻さんや、彼らを取り巻くクラスメイトたちとの淡い関係性のドラマが思春期の1ページ的に描かれています。志村は『青い花』など百合、ボーイズラブを扱う少女漫画の文脈の作家だと思いますが、それの「男の娘」版がこの『放浪息子』だと言えるでしょう。

出来のいい本作品ですが、その割に「入らないな」というのが正直な感想です。というのも自分が思春期時代、性倒錯的な感情を一切持ったことがないのが理由だと思います(作中のポジションで言うと、僕は千葉さんみたいなヤツでした。さおりん萌え!)。ようするに、僕は志村の描く魅力を直感的に分からない人間なのですが、いい機会なので性倒錯について踏み込んで考えてみたいと思います。草食系男子とか非実在青少年条例とか、流行りのトピックにも繋がるでしょうし。


性倒錯は病ではない?

「女っぽい男」はその人の性格であり、「男を好きな男」は同性愛であり、「女の格好をした男」は女装であり、それぞれは全て別々で異なる概念である。

Wikipedia「性同一性障害」より http://tinyurl.com/5u4r7h2
性倒錯は差別に晒されてきた概念であり、言及には非常に神経質なジャンルです。そのため差別的なニュアンスを避けるために語彙が乱立し、それが余計に部外者による言及を敷居の高いものにしています。
大まかには性倒錯を染色体異常などの疾患(性同一性障害)とみなす見方と、たまたま自分の身体とは異なる心の性別を持っている現象(トランスジェンダー)とみなす見方があり、当然ですが当事者はトランスジェンダーの立場を好みます。
彼らの言説はNHKの福祉番組『ハートをつなごう』などに見ることができ(http://www.tokyowrestling.com/articles/2008/04/nhk_heart1.html)、それによれば彼らは「トランスジェンダーは普通であり、障害者ではなく、あくまで普通の人間として扱ってほしい」という立場を強調します。心情としてはよく分かるのですが、僕はその主張は「男女」のみならず、「普通」という概念に対する根本的な問いかけになっていることを意識せざるを得ません。

「普通」って何だ?
もはや言葉の限界とか認識論の世界だと思うのですが、そもそも「普通」とは何でしょうか。僕は感覚的に10人中過半数が選ぶ選択が「普通」なんだろうと感じていますが、こういう答えはおそらく日本的でしょうね。マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室』に見られるように、海外では人種も風俗も異なる民族が共存している状態こそが「普通」であり、その中で多数派を占める単一的な集団が"standard"ではあっても"normal"とは言わないと思います。そのため常にマイノリティとの関係性が問題の焦点になっている。
自由主義(リベラリズム)においては、こうした問題は「公正」の概念として整理されています。つまり「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という「立場入れ替え可能性の確保」の問いが根本にあり、その具体的な回答としてマイノリティへのアファーマティブ・アクションなどが実施されている。

ひるがえって日本では単一的な民族性のために、異なる習慣をもつ人々と共存している感覚がありません。そのため普通=standardが一種の「型」のようになり、その型を外れる人間は異常=abnormalとして共感不可能な彼岸に置かれてしまう実情があるように思います。

このような社会においてトランスジェンダーは二重苦だと言えるでしょう。なぜなら日本において「普通」とは漠然とある一般人(日本人)の型をはみ出さないことであり、それは突き詰めれば「自己主張をしない」ということだからです。在日特権を主張した瞬間にその人は普通ではなくなり、政治的な話をした瞬間に普通ではなくなり、果ては場の空気が読めなくなった瞬間に普通ではなくなるのです。よく言われることですが、日本社会では民族的な単一性が自明と見なされているために、コミュニケーションの共感可能性が「普通/異常」の分水嶺になっている感覚が強くあります。それは欧米においてトランスジェンダーが「健常者/病人」の審級にかけられており、「健常な普通の人」としての権利拡大(同性婚など)の運動を展開しているのとは隔世の感があると言わざるを得ないでしょう。日本において「普通」とは凡庸で個性を主張しないことであり、「トランスジェンダー」という個性を強調しながら「普通」を主張するのはナンセンスなのです。

『放浪息子』ではこのへんの機微がよく描かれています。男装趣味の更科さんは、変わり者ではありますがセクシャル的には健常であり、立ち回りも上手いのでそれほど周囲からは浮いていません。高槻さんはトランスジェンダー的なメンタルを抱えているものの、思春期少女の性倒錯はある程度ファッションとして認知されているからか、それほど問題視されません。それに対して二鳥くんの女装は大騒ぎになり、彼は学校でのそれを禁じられていじめに遭いました。今の世の中のぼんやりとした「普通」のしきい値が男の娘のあたりにあることを表しています。

中二病としての性倒錯
もう1つ気になるのは、その「ファッションとしての性倒錯」という側面です。
前提として、まずトランスジェンダーの中核である性同一性障害は身体由来であり、(それを異常と捉えるか/普通と捉えるかはともかく)個人の趣味や環境要因による後天的なものでないということは言われています。

原因ははっきり分かっていないが、胎児期に外部からのホルモンに曝されるなど、何らかの原因で体の性とは異なった方向に、脳の性分化が進んだという説(ホルモンシャワー説)が知られている。家庭での育て方の問題ではなく、いくら説得しても「男(女)らしくしろ」と叱っても、精神療法によっても、心の性は変えることが出来ないとされている。

性同一性障害を持つ者と持たない者との比較において脳内の特定部位の形状の差異が見られた例は、以前から複数報告されていた。例えば、人間の性行動に関わりの深い分界条床核は、男性のものは女性のものよりも有意に大きいが、6名のMtFの脳を死後に解剖した結果、分界条床核の大きさが女性とほぼ同じであった。

男性ホルモンに関わるアロマテーゼ遺伝子、アンドロゲン受容体遺伝子、エストロゲン遺伝子の繰り返し塩基配列の長さを調べた結果、MtFではこれが長い傾向を示した。これは、男性ホルモンの働きが弱い傾向であることを示している。

しかし僕が思うのは、世の中はグラデーションであり、そう二元論的に割り切れるものでもないだろうということです。
僕が述べるのはメタ批評的な話で医学的な実用性は薄いでしょうが(でもそれなりに有意味だと思うから言うのですが)、世の中の概念というのは必ずしも普遍のフォーマットを持つのではなく、常にある程度の揺らぎを持った集合的なものとして捉えられるわけです。したがってホルモン異常にしても染色体異常にしても、「普通/異常」「男/女」という二元論ではなく、厳密には常に程度問題がつきまとうはずなのです。そして境界線の/というのは便宜的なものにすぎません。たとえばトランスジェンダーでは性分化疾患との絡みで「第三の性(中性)」を自認する立場もあるし、分界条床核の性分化は後天的だという立場もあります。

これらは医学的診断を伴う性同一性障害については、ある程度しきい値としては機能しているでしょうが、しかし本人の自認に基づくトランスジェンダーでは益々グラデーション化を避けられないでしょう。「トランスジェンダー」という言葉は疾患としての「性同一性障害」という差別ラベリングを忌避するために当事者によって持ち出された言葉だそうですが、なかばマジックワード化しているために『放浪息子』で描かれるようなファッションとしての性倒錯を是認せざるを得ません(たとえば、性同一性障害においては統合失調症による妄想などに対する除外診断が行われますが、トランスジェンダーは自己申告のため顧みられません)。したがって凝り固まった男/女の観念を持つ道徳主義者には異常(病気)であり嫌悪の対象となるのです。

気になるのは、こうした性倒錯フォビアや、トランスジェンダーを声高に叫ぶ当事者ほど「性」や「普通」の概念の曖昧さに無自覚なように見えることです。たとえば僕なんか一応ノーマルな男性ですが、昔からクラスの「普通」の価値観には馴染めなかったし、リア充共死ねよと思って生きてきた(笑うとこです)。対照的にトランスジェンダーの中には外見からして僕よりよっぽどマッチョな人や、女の子より女らしい人もいる。正直、当初その振る舞いがとてもパターナリスティックでロールプレイ的に見えたのは否定しません。

ようするに中二病じゃないかと思ったんですが、『ワールズエンド・ガーディアンズ』で言及したように中二病は「普通」が前景化したフラットな郊外での異化作用という側面が拭いがたくあります。均質的な郊外においては学校の成績や住宅の価格など、小さな差異を見つけては延々差異化ゲームが繰り返される。このような「普通」の抑圧に対する反動が中二病であり、「オレは普通の人間とは違う」「選ばれた特別な存在である」といった屈折した自意識を形成するわけです。この延長線上で性倒錯を考えたわけですが、あくまで「グラデーションである」と前置きした上で言えば、ファッション的なトランスジェンダーの中にはこうした傾向が強いのではないかと予想します。世の中の多様さを知らないがゆえに、自分の設定した「普通」「男」「女」にこだわって自縄自縛になってしまっているタイプ。

人の性別はどこに存在するか。たとえ性分化疾患の当事者でも、男性もしくは女性としての、どちらかの確かなアイデンティティーがあり、本人の自己意識も確かめずに周りの他者がその人間の性別を恣意に決定することはできない。現に、性分化疾患を患って出生した乳児が、その場の医師によって恣意的に性別を決められて手術を施され、“たまたま”反対の性別にされた当事者が乳児期以後、アイデンティティーとの不一致によって苦悩するという多くの実例があった。これは性同一性障害にも共通する苦しみでもある。例えばこの性分化疾患の当事者に対し、他者が「医師が“何となく”であなたをその性別と決めて性器の見た目もそれらしく作ったのだから、その性別で生きろ」などと言えようはずもない。以上の事例や経緯によって、「身体の性」と「心の性」はそれぞれ別個であり、ひとえに「身体」が人の性別を決定づける根拠とはならないことが明らかとなった。

性同一性障害を抱える者は、もし生来から自身の性同一性と同じ性別の身体で生まれてさえいれば、何ら違和感を持つこともなく普通にその性としての人生を過ごしてきたはずであり、人格やアイデンティティーが“途中で変わった”わけではない。当事者は「(心身ともに)異性になりたい」のではなく、「本当は女性(男性)なのになぜ身体が男性(女性)か」という極めて率直な感覚を胸中に持っていることも多く、当事者自身にとっての「本当の性別」とは、まさしく自分を自分たらしめるアイデンティティーにしたがった性別である。

異性装をする者は、純粋にそれを楽しむためや、あくまで趣味と捉えていることが多い。性同一性障害を抱える者は、家族との関係や仕事の雇用、外科的手術、戸籍上の名や性別の変更など、一つの人生そのものに深く関わる問題で、とても趣味や楽しみと呼べるものではない。

社会や文化における男女の扱いの差を無くしたとするならば、性同一性障害者の苦悩も無くなり「治る」のかといえば、それは決してない。もし仮に撤廃が実現したところで、現実的、物理的に自身の身体は確然と存在し、身体的性別に対する違和感、嫌悪感を取り払うことにはならない。またなにより、それらの苦悩は単なる好き嫌いや損得ではなく、その人自身の持つアイデンティティー(同一性)が基底にある。性同一性障害の抱える問題と性差の撤廃とは、根本的な相違がある。

なお、性同一性障害に対し、「心のほうを身体の性に一致させる」という治療は、以下の経験的、現実的、倫理的な理由によりおこなわれない。

●性同一性障害の典型例では、過去の治療において成功した例がなく、ジェンダー・アイデンティティの変更は極めて困難だと判明している。性同一性障害は生物学的な要因が推測され、そのような治療は不可能と考えられている。
●性同一性障害者自身はジェンダー・アイデンティティの変更を望まないことが多いので、治療の継続が困難である。
●ジェンダー・アイデンティティは人格の基礎の多くを占めており、人に対する人格の否定につながる。

また、性同一性障害の原因は身体とは反対の性への脳の性分化が推測されているが、例えば「脳を身体の性別に一致させる」などという脳に対する外科手術は現在の医療水準では不可能であり、またたとえ仮に可能であったとしても倫理的に大きな問題がある。

↑長いので読み飛ばしてもらって結構ですが、ようするに、Wikipediaの性自認、性同一性に関する記述はひどくナイーブで文学的です。これはつまり、医療の分野では人間の心はアンタッチャブルだど言っているように見える。
個人的には、この考え方には違和感があります。男/女の区分なんていう生物学的なものを内面化して再強化してるのは良くないし、極端な話男女の性別を逆の意味で教育されたら直しようがありません。「アイデンティティ」という言葉が連発されていますが、キャラ消費の時代においてアイデンティティという概念がいまだに有効なのかも疑問です。

キャラ化する男/女
あまり僕はトランスジェンダーを先天的な素養とする立場をとりません。というより、その程度の差異であればいくらでも環境要因で改変されうると考えているからです。たとえば、最近男子の草食化が言われていますが、それは女性が強くなった社会への適応ではあれ、染色体異常やホルモン異常ではないでしょう。同様に二鳥くんのトランスジェンダーも環境要因的な側面が強く描かれていると思います。彼のような可愛いタイプの男子は女子に人気があり、可愛がられるなかで女性的な感性になっていくというのは個人的な経験からもある流れだと思っているからです。また日本には古来から「衆道」という文化があり、同性愛はある程度「普通」のこととして受け取られていた。奇異の視線で見られはするものの、いまだにその流れは変わっていないように思います。

●より社会へ適応するため、あるいは違和感や嫌悪感から逃れるために性自認を抑え込み、身体的性別に応じた過剰な男性性または女性性の行動様式を取ろうとする場合もある。
●自身が反対の性の容貌や外性器を持っているという確然たる事実や、当然のように身体的性別で扱われる環境にあって、姿形の見えない性自認はそれだけでは不安定であるため、性自認に基づく男性性または女性性の行動様式を過剰に取ろうとする場合もある。

先のロールプレイの話に戻ると、性を二元論的に捉えたときにキャラ過剰に演じてしまうのは仕方ないのかな、という気はします。それはトランスジェンダーに限らなくとも、三島由紀夫が中年マッチョになったのもそうだし、女の子がキャラ過剰に女性性や少女趣味に目覚めるのもそうなのでしょう(逆にそれを「女装」と自嘲する女性もいる)。ただしそれはカギ括弧で括られた「男性」「女性」像であり、とても郊外的な匂いを感じます。トランスジェンダーが先天性のものであるなら、なおさら便宜的な社会規範にすぎない「男性/女性」を内面化しないほうがよいのではないか。

性自認が先天的にしろ、環境要因にしろ、あるいは偶然にしろ、トランスジェンダーがトランスジェンダーであることによって感じる違和感と、トランスジェンダーが中二病であることによって感じる思春期の違和感はある程度分けて考えるべきじゃないかと感じます。そして中二病(思春期的心性)に対しては、学校を中心とする狭量な価値観の外にも世界が広がっていることを見せてあげれば、成長していくなかでどこかにランディングするでしょう。

おそらくトランスジェンダーもグラデーションなので、躍起になって異性装してる人ばかりじゃないのだろうなという気はしています。そしてそのほうが生きやすいのだろうなとは思う。日本はコミュニケーション至上社会ですが、逆に言えばコミュ強者である限りは「普通」なのです。ガチではなくネタとして消費可能なら異性装は武器にすらなるでしょう(それはにとりんのモテぶりが証明済み)。

長くなったので一旦切ります。後半は消費される側面の性倒錯、やおい好きや非実在青少年との絡みで論じる予定です。


続き↓
『放浪息子』性倒錯は思春期の病なのか。倒錯好きは異常なのか。(下)
  1. スポンサーサイト
  2. 2011/03/28(月) 22:00:00|
  3. Permlink|
  4. たわ言|
  5. トラックバック:0|
  6. コメント:3|
  7. このエントリーを含むはてなブックマーク

PROFILE

  職業ニート
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。