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『東方儚月抄』単行本は“中巻”がある!らしい。

ソースは2ちゃんです。住吉三神に対応してるとか。
なんか1000円もして高いな~と思ったら神主の音楽CD付だった罠w

東方儚月抄 ?Silent Sinner in Blue. 上巻 (IDコミックス REXコミックス)東方儚月抄 ?Silent Sinner in Blue. 上巻 (IDコミックス REXコミックス)
(2008/04/09)
秋★枝
ZUN

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「“東方”初の本格ストーリーコミック」を標榜していて、東方シリーズの商業漫画としてはサイドストーリー的なものが他にいくつかありますが、初の「本編」ということになるようです。また同名で切り口の違う小説版、四コマ漫画版も存在します。
原作者のZUN(神主)がストーリーを担当し、漫画は東方同人で有名な秋★枝が担当。秋★枝はこの本が商業デビュー作だそう(ファンでした。おめでとうございます)。

あらすじは幻想郷のトリックスター、八雲紫が月の裏側に住む民との戦争を画策し、主人公である博麗霊夢や幻想郷の住人たちをそそのかして月を侵略する、というもの。言葉だけ聞くとやたらスケールのでかい話に聞こえますが、この作品世界の場合「異なる世界の対立」はそれを代表するキャラ同士の決闘(弾幕ごっこ)という図式に落とし込まれるので、ドラゴンボールやハリウッド映画のように大変なことにはならないはずです(笑)。やってることは変わらないんだろうけど、それをズらしてグダグダな漫才劇に仕立て上げるのがこのシリーズのウリといえます。

「月の裏側」はかつてゲーム『東方永夜抄』のボスキャラだった蓬莱山輝夜が逃げ出してきた世界であり、お話的に『儚月抄』は『永夜抄』の続きと考えてよさそう。古今東西のお伽話の二次創作である東方において、輝夜はもちろん『かぐや姫』がモチーフなわけですが、月世界関連の設定はほかにも日本神話のいくつかや中国神話などが下敷きになってるようです。僕は民俗学は詳しくないので、月の守護者である綿月姉妹なんかは完全に元ネタが分かりませんねw(『遠野物語』くらいしか読んだことないし)
いまのところ、「月からの逃亡者であり幻想郷の住人」という複雑な立場の輝夜たちは第3勢力という位置づけのよう。
おおまかには

幻想郷サイド(霊夢、魔理沙、レミリア&黒幕の紫)――月の守護者サイド(綿月姉妹)――永遠亭サイド(輝夜)

という構図で進んでいます。

物語としては、この上巻ではまだ各陣営の動きを伝えるだけに終わっていて、互いにぶつかり合うまで至っていません。ゲームでいうと丁度ここからシューティングパートがはじまる感じですね(笑)。
なので正直“漫画作品として”よく出来ているとは言い難く、説明的な会話が続いて主人公達の立ち絵が添えられるだけのいわゆる「立ちっぱ状態」になってしまっています。この状態は動きがなく、読者が退屈になるので漫画の基本的なセオリーからいえばアウトです(オレも持ち込み行くと死ぬほど言われる(泣))。
ですがこの作品の場合「東方シリーズのコミカライズである」という大前提があり、むしろこの見せ方はゲーム版の会話パートに酷似していて、ゲームの雰囲気をよく残しているといえる。漫画から東方に入るひとには敷居高いでしょうが、たとえば京極夏彦の小説があの分厚さとまわりくどい文章でなければ表現できないように、東方の漫画版として「これが絶対だ」とは思いませんが、アリだとは思いますね。そのための原作ZUN起用なのでしょうし。
あと画一的で凝り固まった漫画評価(だから売れねえんだよッ!)への反感も籠めて、この作品は擁護したいです(笑)

また一方、そういう事情もあって作画の魅力は十分に発揮されてないように感じる。同人板にいる連中ほど詳しくないけど、僕もこのひとの漫画の魅力は何気ない日常を少女漫画的に描く――要するに中身の無い話を描く――同人特有のキャラの掘り下げの上手さだと思ったので、1次創作として、キャラではなく話を転がしていかなきゃならない場面でうまくこなせるのかとか、漫画的に読んで面白くないのは神主のカタリのせいなのか秋★枝の不慣れさのせいなのかどっちなのかとか…、読んでからちょっと考えましたね。それにじゃあ魅力を発揮するからっていって二次設定(同人界隈で付加された設定)炸裂させて“霊マリカップリング”とかってのもどうかと思うしw
ってなんか超エラそうですけどオレ…orz

とりあえず、噂によると雑誌連載ではもう戦闘が始まっていて、秋★枝の絵もどんどんきれいになっているらしいので(もともとすごい上手い方なんです。やはり不慣れなんだと思う)、次巻に期待ということで。


余談。
第一話の絵がアナログスキャン特有の荒れ(線が太る)を起こしていますが、第二話以降解消してる。やはり同人と商業では勝手が違うんだろうか?
僕もわかんないんで教えてほしいw(←講習行け)
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  2. 2008/06/27(金) 20:13:22|
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エッセイ漫画の想像力 『オタリーマン』『失踪日記』

ふだん絶対読まないジャンルですが、たまたま機会があったので。

ぼく、オタリーマン。ぼく、オタリーマン。
(2007/03/15)
よしたに

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去年出たオタ系サラリーマンのエッセイ漫画。どうも大層売れているようで、重版のうえにシリーズが3まで出てる。オタリーマンで良かったね!よしたにさん(←作者)。

何気ない日常の話だけど、漫画として出来がよくて素直に面白かったです。あと、明言はされてないけど作者は非モテ&ロスジェネ世代(78年生まれ)で全編にわたってその空気が漂っているので、同世代の人は共感しやすいんじゃないかと思う。
ていうかSEやって漫画描いてってすごいよなぁ…いつ寝てんだろ?(byニート)

でも個人的には、てきとうに給料もらって生きてる(ように見える)サラリーマンってのは、やっぱ敵だなーと思う。何だかんだで結構高いもの買ったりチャイパブ通ったりっていうのも、自覚ないだろうけど特権だよね。
「オタク」という社会不適合的な資質を持ちながらも会社員になって、「サラリーマンも辛いんだぁ…」って気持ちは分からなくもないけど、僕はそういうの嫌いだから同情する気にはなれないな。って言うかぶっちゃけ、よしたにさんセミナーとかにも呼ばれたりして相当勝ち組でしょ実際。

…あ、そうそう、WEBでやってる『理系の人々』も面白いですよ(フォロー)。


失踪日記失踪日記
(2005/03)
吾妻 ひでお

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言わずと知れた作品ですね。おそらくエッセイ漫画ブームの火付け役じゃないだろうか。

ホームレスを疑似体験できるのが売りだと思うんだけど、正直僕はキモすぎて引いたw 野宿をしたりゴミ漁ったり…畜生以下。
作者本人はネタとして突き放して描いてるつもりなんだろうけど、巻末インタビューとか読むとどうも嫌な感じが拭えなくて…そもそもロリコン作家だしなぁw 読み進めるとだいぶマシにはなったんだけど、「キチガイが描いた本なんて…」的な読む気の萎えは最後まで残りましたね。

やっぱり、ネタをネタだと思われなくなったら終わりだと思うんですよ、誰も話を聞いてくれなくなるし。団塊ジュニアの「普通願望」ってやつでしょうけど、個人的にはこの漫画に描いてあるような人生は絶対送りたくないですね。ていうか僕もニートって時点でキモがられる要素十分だから、ほんとしっかりしなきゃと思います…orz

ホームレス以外の話題も収録してて、3K労働やアル中の話など。漫画家「吾妻ひでお」の作家人生を振り返る話はフツーにエッセイで良かったです。漫画家と編集の関係とか、最近話題になってる雷句誠の事件にもリンクするところがある気がして興味深く読みました。チャンピオン編集長の壁村耐三さん(故人)て色んなところで耳にするけど、キャラ立ってるよね。昔はすごい人がいたんだなぁ。
あと、アル中の問題も最近NHKが特集したりして、結構タイムリーですよね。僕も大学時代からの愛酒癖が抜けなくて結構ひとりで飲んじゃったりするんだけど、この漫画とNHK見てから控えようと思いましたw
  1. 2008/06/25(水) 18:31:46|
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451日目 最近思うこと

outo.jpg
絵を描きました。

▽テーマパーク物語待望論
「現代人は島宇宙に生きている」という話はよくしてきたけど、なんか最近「ヒットがあってそれのコミュニティができる」というより「こーゆう趣味のコミュニティがあってその文脈で受ける」という流れが強すぎて嫌だ。
「加藤容疑者は僕達のダークサイドだ」といって秋葉原事件が盛り上がったり、「僕達の心情を歌うのは3次元より2次元」という感じで電子の妖精初音ミクがネットアイドル化したり…もちろん僕も共感はするけどさ、なんか「ここはこうでしょ」みたいなパズルに嵌められてるというかなぁ…。
これって結局分極化した大衆じゃね?テンプレなんてつまんねーよぅw


▽ポストモダン小説
それとの関連で、最近『ファウスト』のバックナンバーに載ってた東浩紀の評論(たぶん『動ポ2』に収録されたやつ)を読んですごく面白かったんだけど、でもそれの話題だった舞城王太郎の『九十九十九』は僕は読まないだろうなぁと思った。
だから全部「そういう文脈上のもの」って感じちゃうんだよね。果たして「物語を脱構築した物語」ってのは読んで面白いものなの?ていうか誰が読むものなんだろうねそういう小説って。小説ジャンキーですか?
てかそれなら小説読むのやめたほうがよくね?w

建築とかでポストモダンがなぜ廃れたのかって思うんだけど、あれって金かかるっていうこともあるけど、それ以前にたぶん“良くなかった”からなんだよね。良いものだったら高くても残るもん。
舞城の小説はどうなのかなーと思う。とりあえず読むにしても東浩紀の言う文脈は忘れたいな。


▽エロゲ考
エロゲが黄昏に入って久しいですが、最近それが果たしてきた価値、意味について、言われていることに結構摘み残しがあるんじゃないかと感じるようになってきた。マルチエンディングやプレイヤー視点といった構造的な分析が多い気がするけど、「雰囲気」とか「世界観」に対する分析は弱いんじゃないだろうか?
たとえば
・ハーレム状況
・広告郊外的な学園幻想
・ヒロイン属性による擬似リアリズム
・コスプレまがいの制服
・オヤジキャラ排斥
といったラインに無難に落ち着くのは何なのか?それで何が担保されるのか?
まあ考えなくても「青春の捏造」だってことは分かるw ただそのディテールを丁寧に検証することによって、弱者のための物語(最近「弱者」っていうとワープアばっかだけど)としてポストゼロになりうる何かを提示できないかと思う。『ef』なんかはこの典型からズレてると思うけど、それはイケてるのかそれともダメなのか、とかね。
  1. 2008/06/24(火) 22:50:08|
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『写真とことば』とスターとタコツボ

写真はことばと比較すると、より過剰で多義的な「記号」といえる。ことばで描写するその先から意味があふれ出してきて、それらをすべてすくい取るのは不可能なのだ。
(中略)ところが、この仕事を続けているうちに、とても奇妙な事に気づいた。写真とことばを同時に、しかも両方とも高度に練り上げられた形で使っている人たちがいるのだ。それは、他ならぬ、写真を撮影し、発表することを業にしている写真家たちである。


写真とことば―写真家二十五人、かく語りき (集英社新書)写真とことば―写真家二十五人、かく語りき (集英社新書)
(2003/01)
飯沢 耕太郎

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飯沢耕太郎は写真評論家であり、いわば「タコツボの呪術者(シャーマン)」だ。彼の「ことば」はあくまで写真愛好家にだけ向けられた内向的なもので、その外にいる者には届かない――。
僕がそう考えるのは、彼が無条件に「写真には固有の力がある」と主張しその特権性を省みないからで――まぁそういうのは建築にしろオタクにしろ、タコツボのシャーマンにはよくあることなんだけど――それをあえて意地悪くここで吊るし上げるのは、まだ僕が写真初心者で、写真を「分かりたい」と思う反面、「べつに分かんなくてもいいじゃねーか」と半ば開き直るフクザツな心境だからw


本人が自作について言及するのは分かる
この本は写真“評論”家である飯沢が、歴代の日本を代表する写真家たちの文章を引用し、それを解説していくという趣旨だ。その意図は上の引用にあるように「写真とことばを同時に、しかも両方とも高度に駆使している」写真家がいる、ようするに「写真家が写真について言及する文章は得るものが多くて面白い」という発見からだ。
それについては僕も納得する。
飯沢も書いているように、写真家本人が自作について言及するのはそう難しくはないだろうと思う。それは写真家が人間であるかぎり、その思考はあくまで言語ベースであり、感覚的な要素はあるにしろ、大まかには作品の意図はロジカルに説明可能だと考えるから。僕は写真はそれほど詳しくないけど、たぶんこの感覚は多かれ少なかれクリエイティブな活動には共通じゃないかと思う。
絵にしろ音楽にしろ、作り手は何かしらのヒラメキがあってその作品を作っているのだろうし、そのヒラメキをロジカルに強化するのはまず間違いなく言葉だろう。とすれば、すぐれた作品の作り手は必然的によい文章の書き手である、という論法が成り立つ。他者である飯沢が論ずるよりも、より作品に迫った論が作者から出てくるのはある意味当然といえる。
飯沢はこれを中田やイチローを引き合いに出して説明しているが、ようするに写真家というのはスポーツ選手と同様、感覚的な「写真」というものを、「ことば」というロジカルなものに引き寄せて考える訓練を絶えず続けている人たちなのだろう。

…それはいい。ただ、僕がこの本を読んで思ったのは「じゃあ“よい写真”って何よ?」ってことなんだよね。


表現の手法として「アリ」でも、それが「作者」に還元されるのは許せない。
森山大道の引用より。

僕は歩きながら、そして自動車のガラス越しに、ひっきりなしにシャッターを押しつづけているわけだから、いちいちピントを合わせたり、構図を決めたり出来るはずもない。露出もほとんどバラバラだし、現像を終えたフィルムを見るまでは、自分にも一体なにが写っているのか、さっぱり見当がつかない。そして、結果的に出来上がった写真は、ブレて、ボケて、荒れて、ゆがんで、さながら悪しき写真のサンプルのようになってしまう。しかし、よく考えてみると、人間は一日中、それこそ無数の映像(イメージ)を知覚しているわけだが、その全部の像に対して必ずしも焦点が合っているわけでもない。時にはボケて見えたり、時にはにじんで見えたりもするわけである。
(森山大道「主観的スナップ」)


僕でも名前は知ってるくらい有名な森山だが、飯沢によれば彼は「ブレボケ写真」という汚い写真によって一躍有名になった。そしてなぜそんな写真を撮ったかといえば「写真は美しく」というテーゼに疑問を感じた、とかまあ話は理解できるんだけど、問題だと思うのは「じゃあ、森山が“あえて”下手くそに撮った写真と、ほんとうに下手くそなヤツの写真はいったい何が違うの?」ってことなんだよね。少なくとも撮影方法自体は大差ない気がするんだけど。


“表現”なるくだらないもの
いくら表現的に新しくて、論理構成的に筋が通っているとしても、結局その表現が「森山大道」という個人に還元されてしまうことに僕は芸術の限界を感じる。具体的にいえば、僕は最近賃金格差に興味があるのであらゆることをわざと意地悪くカネに換算して考えるんだけど、同じような汚い写真を撮っているのに、森山だけがシロウトと区別されて作品が高値で取引される意味が分からない。分からなくもないがくだらない。…あるいは、そこまで含めて「世界は醜悪」なのか。だとしたら、それって遠回しに自分の作品すら「何の意味もありませんよ」って言っていることに当時の森山は気づいていたんだろうか?

だから、最初の問題意識に戻ると僕は写真について「分かりたい」と思うし、ある意味この本によってたしかにちょっと理解できたんだけど、その反面「ホントにそれは本当なのか」とかなり疑わしく感じる。なぜならそれはスターシステムによって支えられるアーティストの集金体質そのものが疑わしいということもあれば、そのポジションから発せられる言動が全く相対化されないで「写真には特別な力があるんですよ」とか言ってんのはかなりヤバイんじゃないかと思うんですよね。


「音楽は世界を平和にするんだ」「映画ってほんとうに素晴らしいですね」「建築を作ることは未来を作ることである」「『CLANNAD』は人生」etc…。
最近思うんですけど、こういうタコツボの言動の是非はともかく、これらが生み出す搾取構造とスターシステムはぶっ壊したほうがいいと思いますね、本当…w


関連記事:Mr.の絵の価値を考える。
関連記事:島宇宙化と建築 『私たちが住みたい都市』
  1. 2008/06/05(木) 22:01:24|
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PROFILE

  職業ニート
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