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今年読んだ本をまとめて晒す。

書評できなかった分をまとめて振り返ります。

CULTIVATECULTIVATE
(2007/09)
小嶋 一浩、赤松 佳珠子 他

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原広司以降、建築の「“もの”よりも“こと”」(アンチモニュメンタル)的な流れの中では、CAtが一番マトモかな、という気はする。というのも彼等の取った手法が「徹底的に数式を駆使する」というもので、客観性があるから。…ただし、数字嫌いな建築家の中では他にそういう人がいないので、相対化できないというのが難点かな...。そういう意味で彼等のやってることもまだグレー(=怪しい)。数式すら「バズワード」になり得るこの状況…。
ただ、やっぱここのプレゼンはかっこいいよなー、と思った。

プロフェッショナル原論 (ちくま新書)プロフェッショナル原論 (ちくま新書)
(2006/11/07)
波頭 亮

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「プロフェッショナルとは何ぞ?」という本。プロ意識について述べている。
まあ実態なんて、プロじゃない奴ほどカタチにこだわるもんだと思うけどねw ただこの本は清々しいほど誠実でいっそ気持ちがいい。
しかし、「プロ」の腐敗が進む現状への対抗策が「プロ意識の徹底」だけというのは、ちょっと愚直すぎないか?たしかにその通りなんだけど、メタ化した社会ではどうにも劣勢だし、プラットフォームの奪い合い状況への問題意識も持ってほしい。

「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書 197)「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書 197)
(2007/01/16)
郷原 信郎

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まさにその「プラットフォームの奪い合い」状況を書いた本。主体的な善悪や責任感を、マニュアルと監視カメラに置き換えてしまったこの社会では、うまくいかない事があると法制度の問題になってしまう。そして逆にいえば、企業は何かマズイことになっても「法律は守ってますから」で通してしまう。そして問題が大きくなるに到って、やっと渋々対処するわけだ(謝罪とかね)。要するに企業は利益を損ないたくないんだよね。だからこの場合、企業とユーザーはプラットフォームをめぐる敵対関係にあると言える。
この著者はコンプライアンス=法令遵守じゃないと主張したいらしい。つまり、企業にユーザーを思いやる気持ちや責任感を持つ「法人格」を求めているんだ、と僕は読んだ。「人にやさしくしなさい」とか、当たり前のことを言ってるわけね。その通りだよ、前時代的だけどw
そういう観点から、「法令遵守しろと言われても、現実には難しいときもある」と言うなど、企業に優しい面もある。ただ僕は、企業は悪ガキだと思うんで甘やかすとつけ上がる気がするね(笑)

しのびよるネオ階級社会―“イギリス化”する日本の格差 (平凡社新書)しのびよるネオ階級社会―“イギリス化”する日本の格差 (平凡社新書)
(2005/04)
林 信吾

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この著者はお調子者だから全部は信じられないけど、イギリスでの実体験から導き出した日本の「階級社会化」というのは、たしかに説得力があるし真を衝いている気がする。要するに島化。所得とか教育コストから、上流も下流も七光り――つまり親と同じ職業に就くようになって、家柄の階級が固定化してくるだろう、という推論。これは高原基彰のいう「趣味の背景」という問題意識や、三浦展の『下流社会』にもリンクしていると思う。
いちばん問題なのは、学校のブランド化だろうね。できる学校に入るにはそれなりに金も必要、っていう。公立はガタガタだしなぁ…。そもそも、ゆとり教育にしたら入試もゆとり仕様にしなきゃいけなかったよね。もう終わっちゃったけどさ。でも、評価の方法とゲイテッドコミュニティ化っていう問題は根本的に残るんだよなぁ。

「小皇帝」世代の中国 (新潮新書)「小皇帝」世代の中国 (新潮新書)
(2005/12/15)
青樹 明子

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お隣の激動の国を中からレポートした本。実感がこもっていて、すごく生々しくて面白い。特に日中の関係ということを考えさせられる。
例えば、2005年の日本大使館を襲撃した反日デモについてはかなり臨場感のある文章を書いているし、同時に背景もしっかり押さえている。1つには「小皇帝」にもいろいろあって、北京出身のヤツは親も金持ちで余裕があるけど、地方出身のヤツは泣けなしの金で上京してきた苦学生だということ。つまり上の本で書いた学校のブランド化、階級社会の問題。そして13億総競争時代という恐ろしい弱肉強食社会で高まる不満、不安。これらが反日デモに結びついたとする結論は、完璧に高原基彰の「個別不安型ナショナリズム」と一致する、というか、この『「小皇帝」世代の中国』を『不安型ナショナリズムの時代』の実践と考えた方がいいだろう。そして実感を込めながらも「嫌中」ではないところがすばらしい。この2冊を見る限り、日本と中国の状況は驚くほど似ていて、しかも中国の方が先に行っているということだ。日本の今後を知りたかったら中国を見ろと。
あぁ、中国行きたいな…。

波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由
(2005/11)
東 浩紀、北田 暁大 他

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そして、決定的に僕の思考を底上げしてくれた本。これのおかげで混沌とした社会の流れが何となく見えるようになった気がする。「なんかこの社会おかしいな」と思ってる人はぜひ。

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
(2001/11)
東 浩紀

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東浩紀を一躍有名にした一冊。社会的にはちょうどアキバが元気で、オタクが目立ってきた頃にポンと出て流行った「オタク紹介本」という位置づけだけど、当のオタクの僕には「“オタク”から“社会”につながる本」ということになった。そういう読みをした人も多いと思う。
この本から僕は完璧に社会学とかオタク議論というものに傾倒していった(「建築をメタ化する」と言い訳しつつ…w)。
「ポストモダン」と「シミュラークル」は、この本で読んで一時期自分の中でめっちゃ流行った(笑)

ARIA(11) (BLADE COMICS)ARIA(11) (BLADE COMICS)
(2007/10/03)
天野こずえ

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ついに完結するらしいね!
「都市」「癒し」「萌え」という、上で述べたようなすべての僕の関心をを横断するテーマを持っている漫画。ただ前にも書いたけど、ちょっと最近は安っぽい感じがして好きじゃない。正直老害なんだろうと思う。
だから、次の巻で潔く幕を引くのはとてもいい判断だと思った。どんなフィナーレになるのか期待したい。

タビと道づれ 1 (1) (BLADE COMICS)タビと道づれ 1 (1) (BLADE COMICS)
(2007/04/10)
たな かのか

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いわゆる同じ時間を繰り返す『パンドラの夢』とか『Prismaticallization』系の物語(何ていうんだっけ)で、主人公のタビという女の子とその仲間たちは、小さな漁村から出られなくなる。しかもこの街の道は時空が歪んでいて、「テガタ」が無ければ通れない。タビたちは街から出るため(タビは「航ちゃん」に会うためだけど)、テガタを集め始める――。
面白いんだけど、1巻を読んだ印象だと背景が変化しないのはちょっとツライかな…マンガ栄えしない話かも知れない。ただ、心理描写はけっこう上手く描けているので、もしかしたらやり様によっては化けるかも知れない。要するに心の欠損を抱えていて、それが解決できれば街から出られるという話だと思うんだけど、先が読めるだけにどこまで読者の共感を呼ぶ問題設定をつくれるか、気分よいエンターテイメントをつくれるかがカギになる気がする。

萌える男 (ちくま新書)萌える男 (ちくま新書)
(2005/11/07)
本田 透

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これを読むかぎり、本田透は言われているほどキモくない。むしろ客観的ですらある。けっこう好きだと思う。
ただ、自分がモテないのを完全に女性のせいにしてるのだけはどうかと思う。女性をロールモデルでしか見れてない気がする。非モテだからしょうがないけどw

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)
(2005/05/19)
鈴木 謙介

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まさしくこの本の主張を肌で体験した1年だった。「若者が躁と鬱のあいだを行き来してる」というのは本当にその通りだと思う。ただ「…だろうか。」ばっかりでこの先の視点がまったく示せていないのは0点。

ウェブ人間論 (新潮新書)ウェブ人間論 (新潮新書)
(2006/12/14)
梅田 望夫、平野 啓一郎 他

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梅田さんがこの本で提示している内容は、すでにほとんど「はてな」とかネットの中で実現している。その意味で新しさは無いけど、こんなにたくさん新しい視点が詰まっているのはすごいし、それがすでに現実化しているネット界もすごい。そしてつくづく梅田望夫というひとはギークだと思った。日本でシリコンバレー的なものを体現するマスコット。そして聞き手だった平野啓一郎のバランス感覚もよくて、とても読みやすい本だった。
ただ、ここ最近ネットも落ち着いた気がするので、来年以降の梅田さんの展開に期待したい。


…というわけで、トータルで30冊弱。
ブロガーにしちゃ全然だね。ヽ( ´_ゝ`)ノ
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  2. 2007/12/30(日) 02:28:13|
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今年思ったこと。

071229-Yard.jpg
OLYMPUS E-500

2007年も終わりだ。
サッパリ新年を迎えるために、今年感じたことを吐き出しとく。
2つあります。

1つは、「本当のことが見えない」と嘆く中二病のひとを、あたかもホントっぽいウソの吹き上がりによって無理やり治してしまおうとする動きがあること。結果はどうあれ、真実を渇望している人にまた嘘のフダを握らせるのだから、これはひどい仕打ちだと思う。

もう1つは、そうやって強引に成長させられた先にあるのは、結局お役所的限界の見えるネオリベラリズムと、自己責任のリバタリアニズムだけだということ。これでは不正や、他人を犠牲にして生きることから永遠に逃れられない。そういう流れには呑まれたくない。

自分は力も経験もないけれど、自分のしたことには責任のとれる人間になりたい。そしてもっと、みんなが笑える世の中になればいいなと思う。その意味で「セミラティスは設計しなければならない」という宮台真司のことばが、今年いちばん印象に残ったかな。

来年はよい年でありますように…。
  1. 2007/12/29(土) 22:40:20|
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ニヒリズムに未来はない 『グラスホッパー』

「その頁、読んでみろ。こう書いてある。『そして、誰よりも自分をうまく欺せる者が、誰よりも楽しく暮らせるってわけですよ』 どうだ、あんたは自分をうまく騙してるか?」
「俺は、自分を騙しちゃいない」
「だから、楽しく暮らせねえんだな」


グラスホッパー (角川文庫 い 59-1)グラスホッパー (角川文庫 い 59-1)
(2007/06)
伊坂 幸太郎

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今年1年ブログを書き続けてきましたが、この本を読んで確信しました。

僕には批評的なスタンスは向きません。好き嫌いでしか、ものが言えません。

そこでこれからは、もっと直情的に書評を書いていこうと思います。つまり、このブログは中身が薄くなって、面白くなくなると思います。深い考察もよっぽど気に入った作品しかしないと思います。結局「動物」に戻ります。「島」の代表になろうと思います。来年はこれでいきます。

伊坂幸太郎は2冊目ですが、作品の根底にある考え方が気に食いません。この話の結論は「結局みんな悪人で、世界はそんなふうに回っていてどうしようもない。あきらめろ」ということだと思いますが…断固反対します。マッチポンプな態度も無責任で嫌いです。そういう腐った社会に流されたくないから、僕はニートになったんです。だから、僕は理想を諦めません。善良な人がバカを見るような社会はぶっ壊したい。「社会の敵」になります。ネオリベなんかクソくらえ!

今日、お世話になった先生が退官なさるので、一緒に飲んでたんですが、先生も身近な問題意識から「僕たちは何のために勉強するのか」ということを仰っていた。――結局、僕たちの勉強の成果が自分だけのために発揮されたり、誰かを除け者にする結果になるのなら、何の意味もないと思うんですね。それなら死んだ方がいい。
「だから、僕たちは勉強するんだ」と仰っていましたが、それは「機能の言説」ということだと思います。まったく同感です。

そういう考えもなくニヒリズムに酔ってるこの作品は、はっきり言ってカスですね。「スタイリッシュな作風」は所詮スタイリッシュなだけで、頭はスカスカです(それをスタイリッシュと言うのかw)。

「人は誰でも、死にたがっている」と、この作品は言う。
はっきり言う。死にたいヤツはとっとと死ね。僕は死にたくない。


関連記事:似非オタでもOK?
関連記事:『レジンキャストミルク』“電撃の黒い太陽”はどこまで本気か?
  1. 2007/12/28(金) 04:48:14|
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軽い07年総括 ―消費と創造のオタク界―

ブログ界隈も年末でにぎやかですね。Keiさんに呼んでいただきました。

エヴァ卒業宣言 高度資本主義社会の中で生きていくために

『秒速5センチメートル』解釈がこれで良かったのか不安になり、いくつかブログをチェックしてみた。(略)
職業ニートさんの『ニートのかんさつ日記』は僕と正反対でビビった。
多様な読解も可能な作品であると、言う文芸評論のクリシェで片付けられないぐらい、お互いのアイデンティティに関わりそうな違いな気がする…。

待てやw
語彙や論理的思考では全然かなわないけど、「50分間明里への想いを描き続けて、ラスト10分であっさり捨てる」という見方はまったく同じですよ?オレそんなに変なこと書いたっけなぁ…

「秒速5センチメートル」 映像の印象派、新海誠

それでも想い続ける。それが美しい。
いまの世の中では馬鹿にされることだけど、このアニメは「それは正しいんだ!」と、力の限りに叫んでいるような気がする。

あーたしかに、これだと愚直に初恋を美化してるかもね。
そうじゃなくて、むしろ「過去への整理の付けかた」として読んでほしいです。

Keiさんがこの記事で言ってるのは、「人間関係っていうのは他人との関わり合いだから、絶対に思い通りにならないよね」っていう問題意識だと思います。それが昔『エヴァンゲリオン』が流行ったときの結論だったから。ただそれって、すごい皮肉な考え方だ。で、もういい加減うんざりしてきたので、もっとプラス思考で考えられないのか、ってことだと思うんですが。僕はそう理解しました。

『秒速5センチメートル』が描いてるのは、そういう他人との関係です。うまくいったり、いかなかったり。…で、最終的には、主人公の貴樹には何も残らなかった。じゃあ、貴樹は不幸なの?と。ここで意見が分かれるとこなんですが、新海誠作品には一貫してナルシストっぽい雰囲気がある。つまり、こういう一見救われない話を描く意味って何なの?ということ。

で、そこの理由を本人に会ったり、作品や言動から考えてみると、やっぱり「自己肯定」だと僕は思う。つまり、そういう失敗もひっくるめて今の自分があるんだ、と言いたいんだと思うわけ。でないと初恋なんて、ただの痛い汚点だからね。――ひぐちアサの『ヤサシイワタシ』に、「思い出の善し悪しは、自分の現在の状況で変わるよ」というようなセリフがあるんですが、その通りだと思って、だったら情けない過去でも嫌わないで肯定してやったほうが、精神衛生上いいなと僕は思ったわけです。

ただ「それをここまで開き直れるか?」ってのは、正直趣味が分かれますよね。僕は新海信者だからアリですけど。最近で言ったら『CLANNAD』と『ef』のどっちが好み?みたいな。


消費されることで創造される
最近Something Orange発で「作品は、作者のものか、読者のものか」なんていう話がありますけど、あちこちのブログの総括を見るかぎり、読者の影響力が急激に高まってきているのが2007年の傾向だったのかなと思っています。様々な形で作品を消費する読者が現れてきて、従来の同人的な価値以外にも至る所で様々な価値が生まれていたのが今年でした。そしてそれには、読者“だった”ひとびとに表現の場を提供する、さまざまなツールの充実という見逃せない背景があった。ニコニコ動画、初音ミク…従来作品を提供する立場だった企業は、だんだんこういうツール提供に宗旨替えしていったほうがいいのかも知れません。一方で今年はメディア発の作品の限界を感じさせる年でもあったと僕は思います(『XENOGLOSSIA』『なのはStS』『ひぐらし』)。

ま、ブログ村の中からの印象だから、偏ってるんですけどね~。
Galaxy01_20071212210754.gif
                                    (宮台真司「島宇宙化」)

むかしエヴァが流行っていた頃は、宮台真司が言うように読者の「消費の仕方」としては2つ(共感、ネタ探し)に分かれていたと思うんですが、メディアとして『エヴァンゲリオン』という作品は共有していました。ところが10年前と較べると、いまは問題意識すら共有してない気がしますね(というか、共有していたあの頃が変だった?)。このブログで再三言っているように、趣味の島宇宙化が進んで、オタクというカテゴリーのなかでもさまざまな読み方が林立している。そしてそれに合わせて作品も小粒化していると思います。『秒速』は確実にそうだし、『らき☆すた』も『ef』も、『新ヱヴァ』ですらそういう気がしました。そういう意味で、Keiさんが言うように流動性は高まっていて、あっという間に(従来的な)作品は消費されてしまう気はしますね。がんばっても『コードギアス』がいいとこでしょう。だから、決断主義は必然的にやらざるを得ない、というかね。

で、新しいタイプの作品なんですが、これはホントに『XENOGLOSSIA』はアホ、ということに尽きますね。萌え理論Blogの言うとおりだと思います。バンナムは自社の体質が古いばっかりに、手持ちの作品のポテンシャルを引き出せませんでした。せっかく双発的に読者まで取り込んだメディアミックスが完成したかも知れないのに!…アレですね、やっぱ会社は死んだ方がいいわw

関連記事:エヴァ卒業宣言 高度資本主義社会の中で生きていくために
関連記事:「秒速5センチメートル」 映像の印象派、新海誠
関連記事:「アイドルマスター」は今年最強の座に一番近かった…のに 萌え理論Blog
関連記事:そのマンガがつまらないのは、作者のせいか? Something Orange
関連記事:2007年って何もなかったね話@ゲームデザイン かさぶた。
  1. 2007/12/25(火) 15:32:16|
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氾濫するライトノベルは「2方向に撃て」

2007年のライトノベルの拾い物10選 いつも感想中

最近盛況なのかどうなのか分かりませんが、毎月オニのような数が出版されています。

関連記事:今の季節に読みたい恋愛系ライトノベル かさぶた。

「かさぶた。」のDAKINIさんいわく、プレイ本数の足りない東浩紀は「エロゲー評論家」を名乗るに値しないそうです。んなこと言ったら僕なんか、評論どころかブログやる資格もなければオタクですらありませんね。ホントすんません、生きててすんません…。orz

…と、反省のポーズはこのぐらいにして(そんな愁傷ならブログやってねえよ)、なにが言いたいかというと最近ライトノベルの数多すぎません?実質の刊行数は知らないけど、実感としてレーベルも増えたし、全然把握できません。「そんな甘ったれたこと言ってんじゃねえよ」とラノベオタの叱咤が聞こえてきそうですが、ヌルオタの僕としては、別に修行でラノベ読んでるわけじゃないんでw 自分好みの物語を手軽に探したいだけなんですが、ちょっと最近は僕の限度を超えてますね。新人とかぜんぜん分かんないし。

そこで上のように、ラノベ系ブログは「新人」とか「クリスマスに読みたい」とか括りをつけてピックアップしてくるわけです。他にも「ラノサイ」とか、色々ラノベをスクリーニングする動きはある。
しかし!ぼくはその手には乗らないぞ、と思うわけです。…いや、過去に乗ったら散々だっただけなんですが...w

結局、ラノサイとかで選出されて上澄みに残っても、それを僕が気に入るかってのは別問題だと思うんですよ。そこはやっぱり、僕の趣味や問題意識に合致するかというのが大きい。んで考えたんですが、人の趣味というのはこういう風にも見れるんじゃないかと思ったわけ。

趣味の2極化モデル
071219-CASE0.jpg
趣味を「範囲」として考えると、たとえば「ライトノベル」は図の色の付いたエリアとして理解できる。そして、ここで1人の人間を設定する。この図の中心の点はその人の核メンタル(アイデンティティ)を表していて、その周囲の点線は興味の範囲を示している。
071219-CASE1.jpg
このとき、たとえばこの人が真性のラノベオタだったら、核メンタルはラノベの中心にあり、興味の範囲もこの範囲を出ないので、放っといてもラノベを買い漁ってくれるわけです。
071219-CASE2.jpg
しかし、人間そう単純なわけもないので、「核メンタルはラノベだけど、他のことにも興味がある」という人は大勢いる。そういう人というのは図のように、興味範囲がラノベの範囲をはみ出してしまいます。
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ここで、ラノベ以外の範囲として別の趣味を考えます。それは別に「ミステリ」でも「オタク」でも「建築」でも何でもいいんですが、仮にこの人が僕に似た人だとすれば、僕は人間の内面的なものにも関心があるので、「社会学」にも興味があります。そうすると、この人の興味の範囲というのは図のように、2つのエリアにまたがっていると考えられるのです(本当は、僕の核メンタルは「ラノベ」じゃなく「絵描き」ですが)。

実際には、その趣味のエリアの広さや趣味同士の位置関係、人の興味の範囲の広さなどには差があるし、3極とかもっとフクザツに絡み合った状況も考えられるのですが、そんなに複雑化しても実際問題使えないと思うので、ここでは2極に留めています。

2方向に向かって撃て!
で、このモデルから何が言えるかというと、これは僕のお願いでもあるんですが…ラノベの作家にはライトノベルの枠を飛び出して欲しいなと思うんですよ。――ラノベのレーベルから出す以上、どうしても色眼鏡で見てしまうんですが、たとえ名作でもラノベの枠内にぴったり収まってしまうような作品だと、あまりラノベに詳しくない僕としては発掘できないんですよ。ジャンルの中に埋もれてしまうんです。どうしても頭ひとつ飛び出た作品、その中でも自分の興味の対象のほうに飛び出た作品を手にとってしまいます。そして特に、その作品の主題が自分の核メンタルにジャストミートしたりすると、他人の評価はともかく“超傑作”認定して、めでたく書棚入りになり、購読することになります(僕の本棚小さいんですよw)。古い作品ばかりでアレですが、『ブギーポップ』の初期と『ROOM NO.1301』シリーズが僕の本棚の常駐メンバーです。両方とも社会認識や人間関係に示唆のある作品ですよね。あと物心ついたばかりの頃は中村うさぎの『ゴクドーくん漫遊記』シリーズとか愛読してました(笑)

要するに、「2方向に向かって撃て!」と僕は言いたい。なぜなら2方向に向かって撃てば、Aに興味のある人にもBに興味のある人にも手にとってもらえるし、AにもBにも興味のある人には相乗効果になるわけです。それにテーマに2つの軸があると、物語も深まるんじゃないかと思います。…もちろん、3方向でも10方向でもいいですけど、そんなスゴイの書くのは大変だろうし、僕もそんなの読みこなせるほど優れた読者じゃないですからw

まあそんなわけで、苦痛じゃない程度にラノベを読んでいこうと思うのですが、「きっといい作品が埋まっているだろうに、もったいないなぁ…」と思いながら、流動化したラノベの川を眺めています。…たぶん新しい人だと杉井光あたり、僕の趣味だと思うんですが、それですらデビュー作の『火目の巫女』は買ってたにも関わらず、途中まで読んで売りましたからね。趣味の方向に撃つということの重要性を感じる...。ニートが出てくるらしい『神様のメモ帳』は、そのへんすごくキャッチー(魅力的)で楽しみにしてます。

神様のメモ帳 (電撃文庫 す 9-4)神様のメモ帳 (電撃文庫 す 9-4)
(2007/01/06)
杉井 光

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  1. 2007/12/19(水) 18:34:06|
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Mr.の絵の価値を考える。



昨日の絵は1500万円 ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記

この手の「アート」屋たちがやっていることは、アニメやマンガが達成したものを「搾取」しているわけだ。もちろん、その基盤を作ったアニメーター、漫画家たちは昔も今も厳しい生活のなかで彼らの芸術を描き続けている。「だったら、そのマンガをアートの市場に持っていって売ればいい」と考える人もいるかもしれないが、アニメやマンガの価値もわからず、単に投機目的で絵を買う連中なんかに売れても何の意味もない。

関連記事:Mr.の絵は150,000ドルか? ARTIFACT@ハテナ系

kanoseさんの言ってた金額ミスの話はこの際置いときましょう。
要は本家のアニメや萌え絵じゃなくて、何でこのロリキモい劣化コピーが破格で売れてんだよ?っていう、怒りと疑問入り混じった主張ですよね?すごく気持ち分かります。

Mr.の絵がヘボい事なんて、改めて今更言うまでもないですが、それでもこの人の絵はスケボメーカーとコラボしたりして「メンズノンノ」とかにも載ってるわけ。なんで?っていうこと。

Mr. Kaikai Kiki

「イノセント」かどうかは観る人それぞれの判断に委ねられますが、ポップな色彩を使い、大きな目をしたアニメ的なキャラクターが登場するMr.の作品は、均質的に「日本らしさ」が溢れます。アニメに登場しそうなキャラクターがMr.の作品では、過剰に性的な要素をもって表現され、ロリコン趣味を具象化しています。

この前、宮台真司と磯崎新の発言から「建築家はうさん臭い商売だ」ということについて言及しましたが、Mr.のようなポップアーティストもこの文脈で捉えられると思います。

島宇宙化と建築 『私たちが住みたい都市』

建築家やアーティスト、デザイナーというのは、現代の呪術者(シャーマン)と考えると理解しやすいと思います。価値の無いものに価値を付与して金を儲けている人達。特に現代アートがわかりやすいですが、芸術性というのは美しさや技術力だけでは計れない。そこに“何か”あると感じさせる必要がある。下世話な話をすれば、標準より「金を多く払ってもいい」と感じさせる“何か”です。
逆にそれさえ叶えば、けっこう中身はどうでもいい。

071219-Delacroix.jpg
ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』

昔であれば、その付与される価値は社会を支える共同幻想(あるいは「大きな物語」)に則ったものであり、たとえば理想社会のビジョンを示すものであったりしました。そのため、比較的社会の共通理解が得やすく、こういう職種の人は尊敬の対象でした。
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                                  (宮台真司「島宇宙化」)
しかしポストモダン時代になり、共同幻想が崩壊して人びとの価値観が多様化、島宇宙化するにおよび、呪術者たちの宣託も範囲が縮小、限定化して、特定のトライブを代弁するにすぎなくなりました。

そのため、ファインアートの分野で「評価される」ということが、普遍的な評価を得ることにならないばかりか、ある種の“歪み”を孕むことにもなったわけです。Wikipediaの、Mr.の師匠に当たる村上隆の項目にその記述があります。

村上隆 Wikipedia

このような成功の要因のひとつに、現在の世界における「多文化主義」が挙げられる。西洋に限らずその他の世界の出身者も含め、それぞれのアーティストが多様な美術表現(ポップ・アート、コンセプチュアル・アートなど)の方法を用いてそれぞれの独自文化的背景を武器にアートを実践するような、美術の表現内容の多様な状況がある。日本の大衆文化のなかから成功する要素を欧米の文化圏へ持ち込む事で余剰価値を生み、ひとつの文化の中で生産、消費されただけでは想像もつかないような価値が付加される。

つまり価値観が多様化する中で、ファインアートを評価する側も作品価値の多様化を容認せざるを得ない。そしてそこで評価を得る戦略というのも、自分の背景にある文化を抽出して、外側にいる人間にわかりやすく伝える、「島の代弁者」にならざるを得ない。しかし「分かりやすく伝える」ということは、あくまでその文化をオーガナイズ(一般化)したものであって、その文化の本質ではない。したがって本来自分が代弁していたはずの、母体の文化(この場合オタク)からは逆に嫌われて、背後から撃たれる格好になるわけです。なぜなら彼らは“芸術ムラ”の一員になったのであって、もう“オタクムラ”の住人ではないからです。

その意味で村上隆もMr.も純粋なオタクではないと言えます。村上自身もその事は自覚しているようで、Wikipediaによれば「単に金持ちが作品の性的な要素に惹かれて落札しただけなのでは」と語っています。この人はかなり戦略的に“オタク”を“芸術”に売り込んだひとなんですよね。だから僕はカイカイキキには一定の評価をしてるんです、パクリ集団だとしてもね(もちろん全肯定ではない)。

ひるがえって町山智浩さんのエントリですが、これってMr.だけじゃなく現代アート全般に対する不信の表明なんですよね。雑誌で評論家をされている方らしいので、こういうメタなアートの状況を知らないわけじゃないと思うのですが。

僕も『現代アート入門の入門』を読んだくらいで、あとはマメに美術館に行ってるくらいの一般人(の、オタク)ですが、「自分が大好きなオタク文化のクリエーターたちは貧困に喘いでいて、ソレの劣化コピーをうまいことやって芸術に仕立てた詐欺師ヤロウがボロ儲けしてるのは許せない!」という気持ちは本当によく分かります、分かるんです(というか、オレの絵を買ってくれw)。
…が、やっぱりそういう正論じゃどうにもならないよなぁとも思うんです。

あと、ご自身「何の意味もない」とおっしゃってますが、怒ってらっしゃることで自明なように、「売れる」という意味があります。もちろん「アニメとして、マンガとして、人々に楽しまれるべき」というのは最もで、その前提があってこそ売れるのですが、楽しんでもらってるだけじゃ金が入らない世の中なのです。ただでさえ僕らはネットで観るし(「DVD買え」というのもナンセンスです)。金が入らなければ製作現場は回らないし、文化は衰退します。ですが何らかの方法を模索して金を得られるのであれば、そのぶん制作費にゆとりが出来て新しいことに挑戦していくことも出来るでしょう。オタクブーム以前のオタクカルチャーというのは、そのへん誠実ではあるものの、どうしても閉鎖的だった気がします。やっぱりそこはカイカイキキを見習ったほうがいいのかも知れません。

オタク文化はすばらしいですが、日本のアニメはすばらしいですが(主観的)、やっぱりそれを多くの人に伝えられなければダメなわけで。もっと言えばごはんが食えないわけで…。だから末端のアニメスタジオはワープアで、宣伝機関である中間(某電○とか)が肥え太る中間搾取がまかり通っている現状があると思うのです(偏りが異常ですが)。村上一味は詐欺師ですが、上流から下流(市場)までダイレクトにつなぐ橋頭堡を築いた、という点ではすぐれた戦略家でしょう。あるいは彼ら自体、新しい形の中流(宣伝機関)なのかも知れませんけどねw

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FUJIFILM FinePix30i

「敵を倒すには、まずはよく知らなくては」ということで(?)、僕はよく現代アートの展示会を見に行くんですが、「こんなものに何億、何千万も値がついてるのか」と思うと腹も立ちますが、それを抜きに見れば、まあそれなりに面白かったりするんですよね。海外の人が見れば、Mr.のロリコン的な絵柄も新鮮だろうなぁとは思うんです。あと奈良美智なんかは、日本人受けもいいですよね。つまり問題は金で、相対的に見て金額が納得できない、ということに尽きる気がします。――とはいえ、これって根強い批判だと思いますけど…(僕も芸能人とかプロ野球選手、嫌いだし)。

個人的には、やっぱりMr.とかの絵は「キャンバスに絵の具で描いたアナログの絵だ」というところがけっこう大きいのかなぁと思っています。オリジナルが残りますしね。直に手で描いた跡も残るでしょ。いまマンガ・アニメはほとんどデジタルじゃないでしょうか。アナログってなると、イラストレーションとかやっぱりどうしてもアート寄りになりますよね。デジタルは生産性が高いし敷居も低いけど、やっぱりアナログのほうがオリジナルの迫力もあるし、ハイアートの権威には支持されやすいと思うんですよね。だからもう少しアナログでやる人が業界にいてもいいのに、とは思うんです。

ただ、こういう島宇宙的状況に乗っかってる絵描きっていうのはオタク系にもいるにはいますよね。西島大介とか、賛否はどうあれサブカル一派だし、あと個人的に島田フミカネはポップアーティストで通用すると思うんですよ。割ったことも含めて(笑)

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  1. 2007/12/19(水) 02:11:31|
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262日目

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でーきたっ!
色塗りもだいぶ慣れてきたなぁ。来年はイラストサイトも作ろっと。
  1. 2007/12/18(火) 21:57:00|
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  3. イラスト|
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260日目

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ひさしぶりに絵を描いてます。

シナリオも相変わらずしぶとく書き続けてます。だらだらですが、途中で気に入らなくなって放り出さないだけ、自分も歳食ったんだなぁと思う。
うまく言えませんが、昔と違っていまは何か「オレは書き上げられる」という確信がある。作品の出来では悩んでも、「完成させられるだろうか?」という不安はほとんどなくなりましたね。だから無職のこんな状態でも大丈夫なんでしょう。でないととても耐えられない気がする…。


シナリオの片手間に『眠れる森』と『ロングバケーション』をレンタルしてきたんだけど、物語を書くということは何か、一面で自分の創造力の原点に回帰していくような感じを受けます。上の2作品は今回書いているテーマと似たところがあるので借りてきたわけですが、たぶんこの物語の構想を思いついた当時の僕は、直接的には観てないにしろ間違いなくこれらの作品に影響を受けていたでしょうね。今回は物語の雰囲気を僕なりにすごく重視していますが、その“クオリア”というか雰囲気や空気感が、間違いなくそっくりなんです。つまり、僕が美しい世界観を作り出そうとしたら、原風景にあったイメージはトレンディドラマだった、という笑えないオチなんですw この他にもギャルゲーの『WHITE ALBUM』や『Kanon』あたりをかなり意識していると自覚しています。

虚構のイメージに憧れて、それを理想にまた虚構のイメージを再生産してしまうというあたり、非常にポストモダンチックなものを感じてしまいますが、歴史性を参考にしないところが僕なのかも知れません。だからギャルゲーとかトレンディドラマとか、郊外的なものが好きなんだと思います。絵に描いた餅に憧れようが、いいじゃないかと。
  1. 2007/12/16(日) 21:50:31|
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259日目

加湿器買いました。

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不明


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最初ノーパソでも買おうかと思ったんですが…気づいたら加湿器になってましたw ってどんなだよ!
…いや、モノは小さくて気に入ってますよ?


アニメの『CLANNAD』を観てて思ったんですが(僕はゲームやってない)、麻枝准的な「消失モチーフ」はいまだ完全に健在なんですね。これと「擬似家族」という2大テーマがギャルゲー界を席巻した時代もありましたが、いまや完全にローカリティに成り下った感じを受けます。ここまでしつこく書き続けられると、もう彼の個性と言ったほうがいいかも知れない。それはそれで面白いんですが、かつての切実さは感じられないなぁ…。(消失モチーフは僕の青春(笑))

あと内容がほぼ同じなのに書き口がぜんぜん違う『ef』と比べると、好対照で面白いです。
  1. 2007/12/15(土) 22:41:01|
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島宇宙化と建築 『私たちが住みたい都市』

それは建築はでき上がってしまうという極めて単純な理由によります。そこでは、宮台さんのおっしゃる、「二項図式を受け入れつつ、それを信じないで実践する」という態度しかとりようがない。
(山本理顕)


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いままで対談集というものを3冊読んで思ったのだけど、対談集って専門家同士の議論だから深いんだけど、範囲も広くて大変書評が書きにくいですw 1回の通し読みだけだと、個人的な興味のある箇所に偏って、まったく書評にまりません…。『波状言論』はそれで書評書くのを諦めたんですが、今回は頑張りました。テーマの中心を抽出して僕なりの言葉でまとめました。…といっても4章オンリーですが。他はまたエントリ立てて書くかもしれません。個人的に4章が他を包括した議論だと思うので。

対談者は磯崎新×宮台真司、司会が山本理顕。


建築家はウソくさい。
「建築家はドグマ(独断)だ」という磯崎新の宣言で議論が始まります。多くの人が感じる「芸術はよく分からないな」という話。
建築家やアーティスト、デザイナーというのは、現代の呪術者(シャーマン)と考えると理解しやすいと思います。価値の無いものに価値を付与して金を儲けている人達。特に現代アートがわかりやすいですが、芸術性というのは美しさや技術力だけでは計れない。そこに“何か”あると感じさせる必要がある。下世話な話をすれば、標準より「金を多く払ってもいい」と感じさせる“何か”です。
逆にそれさえ叶えば、けっこう中身はどうでもいい。村上隆が海洋堂にフィギュアを作らせて偉そうにしていたり、『涼宮ハルヒ』の二次絵(悪質な複製)を「アート」だと言い張る中国人がいるのは、そういうことです。小説家の上遠野浩平が「ポップカルチャーは『売れたものが勝ち』だ」と言っていますが、そういう意味ではハイアートも大して変わらないのかも知れません(ポップカルチャーが歴史化したらハイアートになるのでしょう)。
したがって、芸術家には常にうさん臭いイメージが付きまといます。


モニュメントとしての建築 ―理想=芸術であった時代―

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東寺 五重塔                   FUJIFILM FinePix30i

昔はそれでも、こういった人々はある一定の信用を得ていたと考えられます。なぜなら、かつては人々が一般的に共有する理想社会のビジョンがあったからです。芸術はその理想を体現していれば、自然と価値を有していた時代があったのだろうと思います(生きてなかったので断言できませんが)。
それを整理したものが、磯崎新の考察をまとめた次の表です。

都市の問題群
                                      (磯崎新「都市の問題群」)

この表は各々の時代が、どういう理念に基づいて運営されていたのかを示すものです。宮台真司の発言を参考にすると理解しやすいと思います。

かつて建築はモニュメントでした。原初的社会ではそうではありませんが、王権が生まれる高文化社会以降、モニュメントになりました。モニュメントは、最初は神話を、ついで歴史を参照することによって、モニュメンタルであろうとしました。

これが近代以前、19世紀までの状況です。城や教会などのいわゆる歴史的な価値のある建造物。それらはただ単に過剰なのではなく、王権や宗教に正統性を付与するモニュメントとして高さが与えられ、煌びやかに装飾された。(したがって現在それを造る正統性は存在しない=もう造れない)

 ところが近代建築の時代になると、表現主義や未来派が出てきて、神話や歴史といった「客観性」にかわって、「主観性」の投射によって、モニュメンタルたらんとします。未来のイメージとかロマン派的なビジョンを用いてモニュメントをつくるようになるわけです。そこではバウハウスに象徴されるように、機能主義的なものですらロマン派的な意味を帯びます。それがナチズム的なものです。

そしてこれが近代、20世紀までの状況です。王権に代わり市民が主役となったこの時代は、大衆社会でした。選挙により選ばれた議会やマスメディアが人々を代弁し、大衆が一体であるような幻想を抱かせました。したがってこの時代の建築はモダニズムをはじめ、合理性や集団性を重視し、国家の掲げる理想を端的に体現していました。

国家がクライアントである場合には、国家の要求はハッキリしているわけですね。例えば、モニュメントをつくれ、ということであり、国家の考える公共性に資するものをつくれ、ということなのです。最初の集合住宅に結びついた社会改造の理念もそうでしたよね。建築家は国家からの明確な要求に対して、答えを出せばいいのです。

しかし21世紀的なターム(ポストモダン)を迎え、こうした理想=芸術という関係は成立しにくくなります。


建築におけるポストモダン

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CODAN東雲キャナルコート          FUJIFILM FinePix30i

端的に言って、人々の趣味が多様化しすぎて、共有できる理想がなくなってしまいました。――ここでの“趣味”というのは、社会学者の高原基彰が言うような、その人の社会的背景までも含んで選択される趣味のことです。たとえば、公団住宅に代表されるようなnLDKタイプの集合住宅は、かつて住民として想定された中流核家族の減少によって、空き室を増やしてゆきました。そして代わって増加したDINKSや単身者向けのマンションに細分化してゆきます。

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“バブル建築”の典型 湘南台文化センター  FUJIFILM FinePix30i

一般に、日本でポストモダンの建築といえば「装飾性、折衷性、過剰性」を特徴とするバブル建築のイメージが定番です。しかし、それらが装飾過剰であったのには、前述した趣味の多様化によって共同幻想が崩壊し、担保するべき社会イメージを失ってしまったという建築家側の苦しい胸の内があったのです。その苦肉の策として好景気にモノを云わせ、繁栄のアイコンを捏造したまでは良かったのですが(アイコンの趣味化)、肝心の中身は典型的なハコもの行政で、多様化した住民達の希望にはそぐわず、利用されませんでした。そして無駄な公共事業と批判されたり、宮台真司にテレクラの待ち合わせ場所になっていると皮肉られたりします。つまり完全な空回りでした。

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ビックサイトもバブル建築ですが、同時にアンチモニュメンタルです。 FUJIFILM FinePix30i

一方この反動だったのか、この時期大阪万博のお祭り広場(スペースフレームの大屋根。今で言う壁の無い「ビックサイト」のようなイベントスペース)に端を発するアンチモニュメンタルな動きも生まれていました。「“もの”よりも“こと”」という、ハコの象徴性(趣味)よりもコミュニケーション発生の実質に重きを置いた「軽い」建築群で、伊東豊雄からSANAA、藤本壮介とつながる現在の主流派になっている、ミニマルなデザインの建築群です。

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Dior表参道                    FUJIFILM FinePix30i

建築がだんだん「姿を消し」始めます。ただし、建築家が提唱するまでもなく、ただの広場であるフリマのスペースにせよ、ただのビル地下であるクラブのスペースにせよ、90年代になって賑わいを見せる場所は「ハコ」ではなくなり、そこにはコミュニケーションの実質だけがあるというふうになるのです。
 おしゃれスポットうんぬんというよりも、コミュニケーションのサブスタンス(実質)を追求するようになる動きを、建築が事実上、追認しているのです。  (宮台真司)



島宇宙化
こうした状況は、宮台真司の言う「島宇宙化」というモデルによって、完璧に説明することができます。

                                                  「島宇宙化」

「人々がその趣味によってテーマコミュニティ(島)を形成する」と考えるこのモデルでは、建築の一部の価値はテーマパークを象徴するアイコン以上の意味を失ってしまいました。バブル建築がそうだったように、日本らしさも、東京(都会)らしさも、外国っぽさも、観光地らしさも、趣味のアイコンの域に矮小化されてしまいました。なぜならば、その趣味の多様化という事態が、ある条件を前提として進んでいるからです。

その条件とは、社会の前提となる構造、「プラットフォーム」を受け入れること=監視社会化です。かつては「主体的」に善悪を判断し、秩序を保っていたものを、マニュアルと監視カメラに代替させることにより、人々は主体を捨てて「動物化」し、話の合わない人とは関わらずに、自分の趣味の世界に閉じこもる自由を手に入れました(郊外化、ファスト風土化)。しかし反面、このプラットフォーム自体に問題がある場合や、プラットフォームに疎外されてしまった場合には、打つ手が無くなってしまいました(9.11的状況)。


プラットフォームの主導権争い
このプラットフォームの上で島化した趣味社会が展開する図式(東浩紀なども指摘)を、宮台真司はアメリカ的な流動化社会として厳しく非難します。なぜならそれは、「まともであることを要求されない社会」だからだ、と言います。まともであることを要求されない社会――マニュアルと監視カメラで駆動する社会――では、いい目を見るのはまともな者ではなく、マニュアルと監視カメラを熟知して使いこなした者です。そしてそれが善人である保障はありません。したがって、プラットフォームに問題があっても、私たちは改善することができません。


                                       プラットフォームの主導権争い

また、プラットフォーム自体も、実は不変なものではありません。島に生きる私たちのあずかり知らぬところで、少数のエリート達(たとえば島の代表者など)が、自分の有利にプラットフォームを書き替えようと血みどろの争いを繰り広げているのが、この社会の現状でしょう。貿易センタービル再建のコンペを例に、磯崎新がその状況を生々しく語っています。

ダニエル・リベスキンドは昔から僕の友達ですが、ダニエルがコンペに勝った。いうなら彼は純粋ユダヤ人ですから、戦争博物館だってやるし、ユダヤ博物館もやっている。こうやって彼の経歴をずうっと見ていれば、当然、ネオコンと同じだということはすぐわかるわけですね。(略)

世界貿易センター(WTC)を崩壊の6週間前に買ったシルベスタインというデベロッパーもユダヤ人ではありますけれども、それのお抱えはSOM(Skidmore,Owings and Merrill)。SOMというのはWASP的な思想・行動をやっているように見えます。WASP、要するに、ホワイトアングロサクソンプロテスタント。だから、ユダヤ人とはまたちょっと違う立場です。けれども、これはアメリカの伝統的な保守層みたいなものとしてのコンセプトをずうっと持っている。建物は実質的にSOMが全部仕切ってしまったわけ。僕などにもそちらから参加要請が来るのだけれども、つき合うわけにはいかないというので断った。SOMが自分たちでやると。ダニエルはやることがなくて、かっかしている。「もう訴訟だ」となった。「しようがない。おまえは手をくだすわけにはいかないけど、コンサルタントとしてデザイナーはここで名前だけは入れてやるよ」という具合。(略)

建築は、片一方でパワーゲームなのです。どうやって自分が代表しているセオリー、代表しているサイドが権力を取っていくかという非常に単純なロジックがあります。ニューヨークではとりわけ明瞭に働くところなのです。僕はニューヨークで仕事があっても、これの中に巻き込まれたら到底かなわない。いつもいくらか身を引くことにしているのですけれども、このパワーゲームは、建築家としてプロジェクトをやるなら、ありとあらゆるところで同じように起こっているのだと考えねばなりません。ニューヨークが一番ひどい例です。

僕の考えでは、建築に限らず、こうした主導権争いの対立こそが、いま世界で起こっている問題の本質なのだと思います。


対抗策としての「セミラティス」実現
先に挙げた「“もの”よりも“こと”」派などは、コミュニケーションの実質を問題としていることから、比較的プラットフォーム的なものに自覚的だったのだろうと思います(たとえば、伊東豊雄などは“コミュニケーション”をモニュメント化しようとしているように見える)。しかしそれ自体が「脱空間化」の文脈の中で生まれ、その後人々のコミュニケーションがネット的なものに回収されていく流れの中で、結局彼らがプラットフォームをどうこう出来る“アーキテクト(設計者)”になることはありませんでした。

建築分野で1965年に発表された、クリストファー・アレグザンダーの「ツリーとセミラティス」という概念があります。

近代的な人工都市が味気なく魅力がないのはその構造が過度に簡略化されたツリー構造であること、反対に、計画に基づかない伝統的で豊かな体験をもたらす都市は、構造のパターンが重なり合い複雑なセミラティス構造をもっていることを明らかにした。

ツリー構造というのがいわゆるトップダウンで、一方的で面白みがなく、融通が利かない(例:行政、マスコミ、人工的)、逆にセミラティスが人間関係やネットコミュニティで、双発的で変化に富んでいる(例:自然)、というのは言うまでもないと思いますが、これを実際建築の分野でセミラティス構造にする、というのは難しい。上海やアジアの諸都市の魅力はセミラティス的ですが、これを意図的に再現することにはいままで成功していません。また「セミラティス」以降、主だった構造論も無いのが現状で、それだけ建築がソーシャルプラン的なものから除外されているといえます。
しかし宮台真司は、この古いモデルはいまだに有効であると主張します。トップダウンの計画というのは、人々の価値観が多様化した現代では必ずといっていいほど意図通りには機能せず、失敗するが、しかし計画を放棄するべきではない、と。

 つまり、手つかずの自然はない。代わりにあるのは、手をつけないという人為が帰結する、再帰的な自然に過ぎません。もちろん再帰的な自然は人為です。

「計画の無力」という考えがポストモダンであり、そこからネオリベが生まれた歴史をかんがみて、やはり計画は必要であるとします。

 それを前提にすれば、セミラティスは、設計しなければならない。あえて設計しないことの帰結をシミュレートすることを含めて、設計しなければならない。そこに他者が偶発的にかかわることで帰趨が乱数的に分岐して裾野が見通せなくなることをも含めて、やはりデザインなのです。(略)近代に限界があるのはいいとして、近代の超克には限界はないのか。計画が無力であるのはいいとして、計画の放棄は無力ではないのか。無力を理由に計画を放棄するなら、同じ理由で計画の放棄を放棄せよ。真実は、計画がときおり有効であり、計画の放棄がときおり有効であるだけです。時代遅れのリバタリアンには退場してもらいましょう。(略)設計の限界には設計の徹底を以て対処する。でも設計は必然的に裏切られる。だからまた設計するのです。

と。このへん完全に得意の宮台節ですが、これが冒頭の山本理顕の言葉につながるわけです。

すなわち、何も計画しないことで事態が好転するわけもないのだから、計画しないという「手段」も含めて計画せよ。そして出た答えは必ず何か問題(これは双発的な展開のきっかけでもある)が起こるから、それへの対策も踏まえてまた計画する。そうやって永遠に信じないで実行し続ける態度こそが、セミラティスである。

――こうして、「建築は実験装置である」と断言する山本理顕の関心に重なるかたちで、きれいに対談は終了されます(ちょっときれい過ぎw)。


感想
僕としては、こうした血みどろのプラットフォームの奪い合い状況を打破するのは、「脱空間化」したコミュニケーションの「再空間化」なのではないか、と思っています。趣味が多様化し、そのコミュニケーションの実質が脱空間化していったことは、別の角度から見れば実社会の空洞化、ウソ社会化と見ることもできる。つまり本音と建前。本音の自由を許してもらう代わりに、建前を守ってこの社会で労働している…というのは、一見正しいようでどこか歪んでいませんか?
――そうではなく、「趣味」ではなく、ほんとうに「私たちが住みたい」と考える多様な社会が“明確なカタチ”をもって存在することが、本当に幸せなことなのだという気がします。それは本書で述べられている、ヨーロッパ的な社会保障のあり方に近いのかも知れませんが。

多様な考え方を持つ人々が、それぞれの生業をもって、それぞれの望む世界で生きられること。それこそが僕の考えるコスモポリタンであり、テーマパーク社会なんですね。この本のおかげで一歩考えが進みました。


P.S.
つかれた。対談集は当分いいや…(と言いつつ『ウェブ人間論』を読んでしまってるわけだがw)

この先の建築この先の建築               .
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高層ビルと孤独 『空の境界 第一章 俯瞰風景』

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公式サイトへ

『空の境界』を観に行って来たんだけど、予想外に面白くてびっくり!
あれ、型月嫌いなんだけどなぁ?

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この作品、原作読むと疲れるけど、映画には向いてるかも知んないですね。
オドロオドロしくて雰囲気サイコー!
いかにも「映画館の映画」ってかんじ。劇場が似合う。
映像がカッコイイ。廃墟の巫条ビル超かっけぇ!
もうストーリーなんてどうでもいいよ。(暴言)
…つうか、昔小説読んだけど、こうゆう話だったんだね。悪文すぎてビジュアル全然浮かばなかったわ(笑)

奈須きのこの文章はレトリック(修辞的)で癖が強く、一見小難しそうでいて、しかしその実何も言ってない、というところがいかにも頭でっかちの“背負ってる”オタクっぽいと思うので、僕はよう好かんのです。
(僕はナイーブなので、そういうナルシズムに耐えられない)
だから今回キーワードの「浮遊と飛行」の違いというのも、僕には単なることば遊び。
そんなんどうでもいい。というかそこまでことばを信じてないので。

ことばの語義に拘って何か意味を見出したり縛られたりっていう考え方は、いかにも中二病的だと思うんですが、実際には実体がなく、しょせん根拠のない吹き上がりでしょう。「ことば」によって名付けることで認識できるようになるけど、定義した時点から常に実体はズレていって齟齬が出る。だから必要なのは「浮遊」か「飛行」か分類することじゃなくて、実体に対して有効な手段ですよね。だから「飛んだ」と思って落ちただけなら意味ないわけです。感情論など不要。

基本的に奈須きのことか、この手の血の気の多い系(高橋龍也、虚淵玄あたり)のギャルゲーが描くテーマは、僕と合わないみたいです。たぶん考えたんだけど、根底にあるのがマッチョな感情論だからじゃないか。スーパーサイヤ人のようにその感情が武器化したり、暴走して殺意や闘争本能になって互いに殺し合うっていう話に、あまり意味を見出せないや...。

それでも観に行ったのは、原作の小説に、うろ覚えだけど「高層ビルから見た風景は『離れている』というイメージだ」というような記述があって、それが今読んでる全然別の建築の本のテーマに被ってたからなんです。ここでの「離れている」っていうのは、たぶん自分だけビルに一人ぼっちで寂しいというニュアンスだと思うんですが、それって実はそのまま現代建築の抱える問題意識でもあるわけ。

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OLYMPUS E-500

同じ間取りが延々縦横に反復する現在のマンションモデルを提案したのはコルビジェで、それを超高層として実現したのはミースですが、超高層マンションは建築界におけるモダニズム全盛期の社会流動化を、最も顕著に表した事例といえます。
当初ひとびとはこれを「鳥かごのようだ」と言って揶揄しました。曰く、すべての部屋の間取りは共通であり、固有性が無く取り替え可能である。またビル全体としても、縦に積み上がっていて敷地との関係性を欠いている。つまり極端な話、それが東京にあろうが大阪にあろうが、海にあろうが山にあろうが中の暮らしは変わらない。変わるのはせいぜい景色くらいだけど、それも影響は無くて、だから「離れている」。

ずっと病院から出られずに街を眺めていた巫条霧絵は、だからその断絶を絶望と感じたのでしょうね。僕はもともとマンションというのはたくさんの人が住むし、俯瞰というのは金持ちが手に入れることのできるステイタスというイメージが強かったので、原作を読んだときはこの「離れている」という感覚にけっこう反発したのですが。いまはちょっとわかります。
いずれにしろ、そういう情念の篭もったものとして、この作品では超高層マンションがある種のイコンとして描かれている。他のテーマはともかく、イコンとして、超高層マンションがミステリの洋館のようにサスペンスの舞台になったという点で、僕にはこの話はとても面白かった。「巫条ビル」ってモデルどこなのかな?70年代の超高層マンションって設定だけど、76年に出来た日本最初の超高層マンションの与野ハウスだろうか?

というわけで、褒めてんだか貶してんだか何だかよくわからない感想でしたw
とりあえず雰囲気はすげぇいいよ。

関連記事:与野ハウス 埼玉のまちとみち
関連記事:RC造による超高層集合住宅 鹿島建設株式会社

空の境界 上 (1) (講談社文庫 な 71-1)
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奈須 きのこ

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  1. 2007/12/05(水) 04:21:51|
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