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「目的性」のない「共同性」だけのコミュニティ。これって何かに似てないだろうか。そう、ムラである。ムラには、生活を共にするとか、いざという時は助け合うとか、そういう意味での目的はあるが、社会的ミッションのようなものはない。
(P254)
このような目的のない血縁や地縁をもとにした集団を、古典的な社会学では「コミュニティ」と呼んだ。
![]() | 希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書) (2010/08/17) 古市 憲寿、本田 由紀 他 商品詳細を見る |

「近代」から「現代」の過渡期にあって、「自分とは何だ」というアイデンティティ・クライシスに初めて集団的に見舞われたのが1960年代末の若者たちであった。だが彼らは自分たちが何を求めているのか言葉にすることはできなかった。そこで若者たちは自己のアイデンティティの確立を求めて「反抗」を開始した、というのが小熊の分析である。
(P60)
ピースボートの若者の語りからは、「右翼」を非難するような声はあまり聞かれない。「つくる会」に集う人びとがアイデンティティの不安を「サヨク」の忌避という外部に求めるのに対して、「セカイ型」の若者たちはその答えを自分たちの内面に求めようとする。(略)だからこそ「自分が変わればすべてが変わる」(ヒロ、27歳、♂)という発想を抱きうるのである。
(P192)
ピースボートは実際に世界各地の「場所」を巡るはずなのに、若者たちはその土地の歴史や環境という固有性になかなか目を向けることはない。ピースボートに乗る若者たちの語る「世界」はあくまでも「世界」であり、各寄港地は「生きる実感」を得るための「背景」として受容されているに過ぎないのである。
(P200)
ベトナムへ行っても、ヨルダンへ行っても、アメリカへ行っても、「世界」が「世界」以上に分割されることはない。
9条ダンスを踊る若者たちに、もしも戦争が起こったらという仮定の話をすると、「考えたくない」と答える人が多い。リカ(23歳、♀)は「どうしよう」と悩んだ後に、「人が死んでも武力でやり返そうとしてはいけないと思う。また同じことをするのは嫌だからぐっとこらえる。そうしたらわかってもらえる」と答えてくれた。
(P201)
彼らに共通するのは、「想い」さえ通じ合えば「わかってくれる」という期待である。そこに「想い」を共有しない他者の存在は想定されないし、だから他者との合意形成の過程も想定されない。この「想い」によって理念が実現するというのがピースボートの考え方なのである。
「世界平和」も自分たちで形成していくものというよりは、他動的に実現されると思っている人が多い。
「セカイ型」の若者たちは「憲法を守ろう」と踊りながら、Tさんたちにコピー機を使わせないピースボートに疑問を抱かず、むしろTさんたちに嫌悪感を抱く。それは自分たちの「感覚の共同体」を侵されたという意識を持つからと考えることができる。論理や言葉ではなく「感覚」でつながった関係性は、いくら強固に見えても不安定で脆弱なつながりである(Sennett 1976=1991、土井 2003)。なぜなら言語的な観念を媒介しておらず、内発的な衝動や感覚に基づいた関係には、演技空間という弛緩地帯が存在しないからだ。
(P181)
だから自分の振る舞いに対して非難が加えられるとそれは儀礼的な意味を一切持たずに、存在それ自体の否定と感じてしまう。ピースボートに同一化している彼らにとって、Tさんたちの抗議は、自分たちが否定されたのと同じ意味を持ってしまったのではないだろうか。
「共同性」が「目的性」を「冷却」させてしまうのではないかというのが本書の仮説である。つまり、集団としてある目的のために頑張っているように見える人びとも、次第にそこが居場所化してしまい、当初の目的をあきらめてしまうのではないか、ということだ。
(P46)
ピースボート帰国後の若者たちは、低賃金で不安定な労働に就いている人も多い。彼らは労働市場から見れば「良い駒」である。安いお金で働いてくれるし、しかも労働環境を変えようというユニオンなどに入る可能性もあまり考えられない。だって、仕事場の外にはピースボートで生まれた温かいコミュニティがあるのである。別に社会に不満を抱いている訳でもなく、日々幸せに過ごしている。
(P263)
体制側から見たら、こんなにいいことはない。「現代的不幸」を感じながら、勝手に200万程度のお金を払ってピースボートに乗り込み、コミュニティを自分たちで作り、安価な労働力として、反抗もせずに社会を支えてくれているのだから。「共同性」が「目的性」を冷却しムラができるだけなら、革命なんてのも起きそうにない。そう、「承認の共同体」は再配分の問題(経済的格差)を覆い隠すし、しかもなかなか政治運動へも発展しないのである。
この本の発見を気取って書くと以下のようになる。
(P264)
(1)「共同性」だけを軸にした「目的性」のない共同体が存在すること
(2)その「ポストモダン・コミュニティ」(Delanty 2003=2006)は社会統合の基礎にもなり得ないし、社会運動との接続性を担保するものではないこと
(3)それは承認の正義(Fraser 1997=2003)を担保する共同体ではあるものの、「目的性」の「冷却」によって経済的再配分を求める闘争に転化する訳ではないこと
そもそも正社員への道も閉ざされている非正規労働者や、企業社会の外で働く人に「やればできる」と言ったところで、彼らには「やるべきこと」がない。もちろん、英会話の勉強をしたり、ワーキングホリデーに行ったり、アートイベントを開いたり、起業を目指したり、自分を高めてくれるように見えることは、この消費社会にたくさん用意されている。
(P267)
だが、「その先」までは用意されていない。中途半端な語学力や芸術的スキルは、ほとんどの場合、就職やキャリアアップにつながらない。起業して成功できる人なんてほんの一握りだ。
もちろん、彼らは「好きなこと」をやっている時点で自己責任だとも言えるだろう。でも、僕はその半分は社会の責任だと思う。蜘蛛の糸のような資格制度しか整備せず、みんなが夢見る仕事には宝くじを当てるような確率でしか就けないのに、「夢を持て」「夢をあきらめるな」「やればできる」だなんて。そもそも、まともなキャリアラダーがないために、「このままではいけない」と感じる若者たちが、やたら「海外志向」や「クリエイティヴ志向」になっている可能性もある。社会が、希望難民を生んでいるのである。
ギャルサーを例に挙げたが、「共同性」を維持しながら「目的性」を失っていないように見える団体は多くの場合、冷静で聡明な(できれば「人間味」があって時に「お茶目」な)「エリート」が率いているように思える。彼らは「共同性」に甘んじることなく孤独な闘いを続けている。
(P273)
社会全体で見ても、運動体規模で見ても、共同体をただの「居場所」だと考えず、「目的性」の達成のためなら冷徹になれ、だけど対外的にはお茶目な「エリート」が、社会を変えていくしかないと思う。
そもそも「あきらめろ」と言ったところで、やる人はやる。たとえ1人でも。
いろんな生き方があっていいし、どんな生き方であっても「絶対こうでなきゃ」とか思う必要はない。とにかく今を生き延びること。そのために必要なら、時にはあきらめたふりをし、時にはあきらめたくない何かに出会って追いかければいい。すべては途中なのだ。だから、とにかく使えるものは――目的性だろうが共同性だろうがセーフティネットだろうが――何でも使って、じたばたと生き延びること。そのためには、何が使えそうか、そのときそのときでもっとも使えるものは何か、ちらちら横目で見ながら選択肢の「溜め」(by湯浅誠)を作っておいたほうがいい。そしてもちろん、為政者を含めて「社会を良くしていく」責任を担うべき/担いたい者が、そうした選択肢の「溜め」を社会の中に整備してゆくことが必要なのだ。
(P305)
![]() | 思想 2011年 05月号 [雑誌] (2011/04/30) 不明 商品詳細を見る |
山本 効率のいい建築に社会性があると勘違いするかぎり、建築家はただ表層をデザインするだけの仕事にならざるをえないし、建築家の思想がその効率に対抗できるはずがないと思う。そうではなくて、その建築が周辺環境や地域社会にどう貢献できるのか、という視点で考えると、建築家は発注者の利益だけを考える役割とは相当違ってきます。
戦後の日本において、問題は吟味され、発展してきたのではなく、忘却され、反復されてきたということ、そして、いかなる過去への視線も、現在によって規定され、絶え間なく書き直されている以上、過去を記述する条件として現在を前提にせざるをえないということを挙げておく。
(P25)
![]() | 日本・現代・美術 (1998/01) 椹木 野衣 商品詳細を見る |
絶対的な価値の根拠から切り離された近代人の本性を、その「彼方」としての「ポストモダン」状態にまで推し進めることによって、すべての人と事象とを問わず、本物(オリジナル)とか偽者(コピー)とかいった不毛な二元論を超え出た怪物(シミュラクル)に「生成変化」させることを提示し、そのためにはあらゆる現象が、自在に採取(サンプリング)や分断(カットアップ)、そして反復(リミックス)できる原子素までに一様に分解されることを提案した
(P18)
近代において芸術は、キリスト教美術がそうであったような意味では、価値を決定する根拠を喪失している。根拠を喪失しているとここでいうとき、わたしが含めていっているのは、芸術が成立するための根拠それ自体を問うことが近代芸術の条件であるのはもちろんのこととして、それに加えて、体系の体系性は根拠に据えた前提の絶対性にあるのではなく、いかなる恣意的な前提もそれを扱う一定の手続においては十二分に根拠足りうるという、形式化の問題が前面化したということである。
(P38)
美とは忘却に基づくものだといってよい。多様の物事が生起する共生状態を忘れること、おのれの内面のとば口に刻まれた深い分裂の傷を忘れること、自分が生まれ、食らい、死ぬ場所が群島であるということを忘れるまさしくそのとき、それら「醜」の要素に代わって「美」が立ち現われるのだ。いずれにせよそれは、トンネルを抜ければそこに、別の人、別の文化、別の言語ではなく、雪国という仮想現実(ヴァーチュアル・リアリティ)を捏造してしまう「美しい日本の私」を生み出すことになるだろう。
(P73)
根拠を要することなく生きていくことが近代人の条件であるというのは嘘で、正確にその条件とは、根拠を要することなく生きていくことが近代人の条件であるにもかかわらず、だれもそのような宙づりに耐えることができないという二律背反なのである。
(P19)
本来ならば人のまねをしてでも、近代芸術の原理を地道に習得し、その内部から作品を再構成すべきところを、いきなり近代の超克を使命としていいわたされた若者たちにできることといったら、あらゆる総花的なアイディアを総動員して繰り広げられるテロリズムの文化形態のほかに、いったいなにがあっただろうか?
(P197)
幻想郷は外の世界の恩恵に身を委ねているから自由気ままに暮らせているのだ。その事は、外の世界の品を扱っている僕だからこそよく判る。
(『東方香霖堂』)
自分たちは幻想郷に閉じこもりながら、外の世界から都合の良い物だけを受け取り、自立している振りをしている。それは、もし外の世界が滅べば幻想郷は道連れになってしまうという事を意味している。その上、幻想郷にいては外の世界に影響を与えることも出来ない。幻想郷に住む者たちが外に出て行かず小さな場所で生活しているのは、それが一番楽である事が判っているからだ。


アニメは嘘と相性がいいっていうか、嘘がないとむしろリアリティがなくなるジャンルだと思うんですよね。なにしろ20分という短尺なので、全体構成の中だけでなく各話単体を考えても、確実に快感を覚えてもらえるポイントを配置しなくちゃいけない。
(『アニメルカvol.4』岡田麿里インタビュー)



希望難民ご一行様

思想 2011年05月号

日本・現代・美術

放浪息子

アーティストは境界線上で踊る

神話が考える

働かざるもの、飢えるべからず。

東のエデン劇場版 I

ネットいじめ

東京マーブルチョコレート

中国行きのスロウ・ボート

ゲーム的リアリズムの誕生

ひぐらしのなく頃に解

空の境界
第二章 殺人考察(前)

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